1907年10月25日 ニューヨークの金融界は完全に暗黒状態となる

1907年

(1907年10月25日・東京朝日新聞)
ニューヨーク金融界の大混乱
(24日、サンフランシスコ発)
 今回の恐慌について、銀行関係者は「銅の価格が下落したことが原因だ」と説明している。しかし、実際には8月に起きた金融恐慌がまだ完全には収まっておらず、預金者の中にも銀行に対して不信感を抱いている者がいたことは事実である。そのような状況のところへ今回の恐慌が発生したため、ついに近年まれに見る大騒動となった。
 まず、22日に700万ドルを支払って営業を停止したのが「ニッカーボッカー・トラスト銀行」である。そして23日にも、「トラスト・カンパニー・オブ・アメリカ(Trust Company of America)」が猛烈な取り付けに見舞われた。
 私(特派員)が現地で見たところ、同行の周辺には数千人もの預金者が押し寄せ、それを見物する人々も大勢集まっていた。そのため、騎馬警官や徒歩の警官が出動して警備にあたっていた。
 ところで、今回の取り付け騒ぎで特に困難に陥っているのは、すべてトラスト会社であり、ナショナル銀行には同じような取り付けが起こっていない。その理由について聞いたところ、ナショナル銀行は銀行同士の結びつきが非常に強く、こうした緊急事態が起こった場合にはすぐに協議して対策を決め、銀行内部が堅固であることを社会に示すことができる。そのため、預金者も安心して取り付けに来ることがないという。
 これに対してトラスト会社には、そのような組織的な結びつきがなく、このような緊急事態に際して、臨機応変に対策を取ることができない。すでに22日の夜には、トラスト会社側で預金者を安心させるため、協議した結果を発表するだろうと思われていた。ところが、23日の朝になっても何の対策も発表されなかった。そのため、世間の疑念はいよいよ深まり、ついに猛烈な取り付け騒ぎを受けることになったのである。
 横浜正金銀行ニューヨーク支店が調査したところでは、今回の取り付け騒ぎは23日をピークにするだろうとのことである。このような状況なので、株式市場では28日まで営業を停止することも検討されるほどの混乱となった。
 また、ピッツバーグの株式市場も今週いっぱい取引を停止したため、ついにはこの混乱がシカゴにまで波及した。アメリカ中央政府には5,000万ドルの準備資金があり、そのうち2,500万ドル程度は金融市場に融通できるだろうともいわれている。大蔵長官もニューヨークに出張し、事態収拾のための対策を協議している。今回の影響はアメリカ全土に及び、各地の取引所はすべて惨憺たる状態になっている。
 大蔵長官は、政府の準備資金を健全な銀行に預け入れる措置を取っている。そして、「経営状態の悪い銀行は今回の恐慌によって打撃を受けるだろうが、それ以外の健全な事業を営んでいる銀行には、今回の恐慌によって何ら被害を受ける理由はない。」と宣言した。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/188

写真・図引用:https://www.moneymade.com/investing/biggest-stock-market-crashes-history?utm_source=chatgpt.com

⚫︎ これは「1907年恐慌」の本格化を伝えた記事

この記事の背景にあるのは、アメリカ史上でも非常に重要な金融危機である1907年恐慌です。

1907年当時のアメリカには、現在のような連邦準備制度(Federal Reserve)がまだ存在していませんでした。

そのため、現在なら中央銀行であるFRBが担うような「最後の貸し手」の機能を、ニューヨークの銀行組織や有力金融家、そして財務省が分担していました。

このため、一つの金融機関に対する不信が、

株式投機の失敗
→銀行への不信
→預金引き出し
→銀行・トラスト会社の資金不足
→信用収縮
→株式市場の混乱

という形で急速に広がりました。

⚫︎ 発端は「銅」だった――ただし、記事の説明には補足が必要

記事は、「今回の恐慌は銅の下落に基くものなり」と銀行関係者の説明を紹介しています。

これは完全な間違いではありません。

実際、恐慌の直接的な発火点となったのは、United Copper Company(ユナイテッド・カッパー社)をめぐる投機でした。

F・オーガスタス・ハインツェ、オットー・ハインツェ兄弟、チャールズ・W・モースらが、ユナイテッド・カッパー株を買い占めて株価をつり上げようとしました。

ところが、この投機は失敗。株価が急落し、それに関係していた銀行・金融機関への信用不安が発生しました。

つまり、「銅価格の下落」そのものが恐慌のすべての原因だったというより、銅・鉱山株をめぐる投機と、その投機に関係した金融機関への信用不安が引き金になったと理解するほうが正確です。

⚫︎ なぜ「トラスト会社」が狙われたのか?

この記事で非常に重要なのが、「困難を來せるは、總べてトラスト銀行にて、ナショナル銀行は取附けられ居らず」という部分です。

ここは1907年恐慌の核心です。

当時のニューヨークには、ナショナル銀行トラスト会社という二種類の重要な金融機関が存在していました。

トラスト会社は、現在の信託銀行にやや似ていますが、単なる「信託業者」ではありません。

預金を集め、その資金を株式・債券などに投資したり、企業や証券市場に資金を供給したりしており、実質的には銀行に近い金融仲介機関でした。

ところが大きな違いがありました。

ニューヨークの銀行は「New York Clearing House(ニューヨーク手形交換所)」という相互扶助的なネットワークに組み込まれていたのに対して、トラスト会社の多くはそのメンバーではありませんでした。

これが決定的でした。

⚫︎ 「ナショナル銀行は安全、トラスト会社は危ない」という構造

記事の記者は、この違いをかなり鋭く観察しています。

「ナショナル銀行は組合を固くして……」というのは、ニューヨークの銀行が相互に協力する仕組みを持っていたことを指しています。

ニューヨーク手形交換所は、加盟銀行に対して必要な場合には資金を供給することができました。

ところがトラスト会社は、その仕組みの外側にいました。

実際、10月21日にニッカーボッカー・トラストが救済を求めた際、ニューヨーク手形交換所は支援を拒否しました。

理由は、ニッカーボッカーが手形交換所の加盟機関ではなかったからです。

ここから一気に危機が深刻化しました。

⚫︎ ニッカーボッカー・トラストへの取り付け

記事に登場する「ニツカーボツカー・トラスト銀行」は、正式にはKnickerbocker Trust Company(ニッカーボッカー・トラスト・カンパニー)です。

当時のニューヨークでも有力なトラスト会社でした。

10月18日、同社社長チャールズ・T・バーニーがチャールズ・W・モースと関係していることが報じられ、預金者の不安が急激に高まりました。

そして10月22日、預金者が一斉に預金を引き出しました。

わずかな時間に約800万ドルが引き出され、同行は営業停止に追い込まれました。

記事の、「七百萬弗を排出し店を閉ぢたる」という記述は、この出来事を指しています。

⚫︎ 翌23日、今度は「トラスト・カンパニー・オブ・アメリカ」

ニッカーボッカーが倒れると、今度は別の巨大トラスト会社、Trust Company of Americaに預金者が殺到しました。

記事に、「数千の預金者押寄せ」「騎馬巡査、徒歩巡査にて警衛せり」とあるのは、まさにこの時の光景です。

つまり新聞記者がニューヨークで目撃したのは、「銀行の前に何千人もの人が並び、預金を現金化しようとしている」という、現代でいう銀行取り付けの光景でした。

これは単なる株式市場の暴落ではありません。

金融システムそのものへの信用不安になっていたのです。

⚫︎ この記事の面白いところ――「情報発信の失敗」が危機を悪化させた

記事では、「今朝に至りても依然何等の策を講ぜざる」「公衆の疑惑は益々甚だしく」とあります。

これは非常に重要です。

トラスト会社側が、

「預金は安全です」
「資金は十分あります」
「政府・銀行団から支援を受けています」

などと明確なメッセージを出せなかったため、預金者の不安がさらに膨らんだ、と記者は分析しています。

現代の金融危機でも、

情報不足 → 不安 → 預金引き出し → 本当に資金不足になる

という自己実現的な銀行取り付けが問題になります。

1907年のニューヨークでも、まさに同じ現象が起きていました。

⚫︎ 政府も介入――しかし「中央銀行」がなかった

記事には、「中央政府には五千萬弗の準備金あれば」「大藏卿紐育に出張し善後策協議中」とあります。

ここでいう「大蔵卿」は、当時のアメリカ財務長官、ジョージ・B・コーテルユー(George B. Cortelyou)です。

コーテルユーはニューヨークに入り、政府資金を健全な銀行に預けるなどして、金融市場に流動性を供給しました。

現在なら、FRBが金融機関に資金を供給するという形になりますが、1907年にはFRBがありません。

そのため、財務省+ニューヨークの銀行団+J・P・モルガンが危機対応を行うことになりました。

⚫︎ そして登場する「J・P・モルガン」

この記事ではまだ名前が出てきませんが、この後の恐慌の展開を理解するうえで非常に重要です。

J. P. Morganは、当時のアメリカ金融界で圧倒的な影響力を持っていた金融家です。

政府だけでは対応できなかったため、モルガンがニューヨークの有力銀行家を集め、資金を集めて危機に対応していきます。

特にトラスト・カンパニー・オブ・アメリカへの支援は重要でした。

つまり1907年のアメリカでは、「中央銀行がいないので、政府と民間の巨大金融家が中央銀行のような役割を果たす」という異常な構造になっていました。

⚫︎ 株式市場にも波及

記事の後半に、「ピッツバーグ株式取引所は今週間取引を中止」「終に影響は市俄古にまで及べり」とあります。

「市俄古」はシカゴ(Chicago)です。

ニューヨークだけの問題だった金融不安が、

ニューヨーク
→ピッツバーグ
→シカゴ
→アメリカ各地

へ広がっていったことを報じています。

実際、1907年恐慌はニューヨークだけで終わらず、アメリカ全土、さらに国際金融市場にも影響を及ぼしました。Federal Reserve Historyは、これを20世紀最初の世界的金融危機と位置づけています。

⚫︎ 「8月の恐慌がまだ癒えていない」という記述にも注目

冒頭の、「去八月の恐慌未だ全く癒えず」という一文も重要です。

つまり東京朝日新聞は、今回の出来事を突然発生した単独の事件とは見ていません。

1907年にはすでに景気後退が進んでおり、金融市場も緊張していました。

そこへ10月のユナイテッド・カッパー株をめぐる投機失敗が加わり、金融システムの弱点が一気に露呈したのです。

Federal Reserveの解説でも、1907年にはすでに景気後退が進んでおり、金融市場が逼迫していたところへ投機失敗が起きたとされています。

⚫︎ そして、この恐慌が「FRB誕生」につながる

1907年恐慌の歴史的な意味は非常に大きいです。

危機の過程で、「アメリカには、危機の時に銀行へ資金を供給する中央銀行が必要なのではないか」という議論が強まりました。

その後、National Monetary Commission(国家通貨委員会)が設置され、欧州各国の中央銀行制度などが研究されます。

最終的に1913年のFederal Reserve Act(連邦準備法)によって、現在のFRBにつながる連邦準備制度が創設されました。

したがって、「1907年恐慌 → 金融制度改革 → 1913年FRB設立」という流れは、アメリカ金融史の非常に重要な因果関係です。

⚫︎ まとめ

この記事を一言でまとめるなら、「ニューヨークの金融危機が、トラスト会社への取り付けを通じて本格的な金融恐慌へ発展し、政府と銀行家が緊急救済に乗り出した瞬間を伝えた記事」です。

特に重要なのは次の5点です。

記事の記述現代的に理解すると
銅の下落ユナイテッド・カッパーをめぐる投機失敗
トラスト銀行への取り付け預金者による一斉預金引き出し
ナショナル銀行は比較的安定手形交換所という相互支援ネットワークが存在
トラスト会社が危機に陥る手形交換所の外側にいたため流動性支援を受けにくかった
大蔵卿が準備金を銀行に預ける中央銀行がないため、財務省が流動性供給を行った

そして、この事件を後世から見ると、1907年恐慌は「2008年のリーマン・ショック」にも少し似ています。

もちろん時代も金融商品も全く違いますが、

金融機関への信用不安
→ 資金引き出し
→ 流動性危機
→ 他金融機関への波及
→ 政府・金融当局による資金供給

という構造には共通するものがあります。Federal Reserve自身も1907年恐慌と2007~09年金融危機の類似性を指摘しています。

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