(1907〈明治40〉年9月28日『東京朝日新聞』)
9月24日にロシアの首都サンクトペテルブルクで、イギリスとロシアの全権委員が批准書を交換した英露協約が、本日正式に発表される予定である。その内容のうち、特に重要な点を『内外調査通信』は次のように伝えている。
1.イギリスとロシアは、ペルシャ(現在のイラン)の独立と領土保全を尊重し、すべての国に平等な経済活動の機会(機会均等主義)を維持する。
2.イギリスはペルシャ北部で、ロシアはペルシャ南部で、それぞれペルシャ政府に対して政治上・商業上の特別な権利を要求しない。
3.ロシアはアフガニスタンを自国の勢力圏外と認め、イギリスもアフガニスタンにおいてロシアを威圧するような行動を取らないことを約束する。
4.両国はチベット(西蔵)の領土保全を尊重し、その内政には一切干渉しない。
5.両国はラサに外交使節を常駐させず、また鉄道・電信・鉱山などの利権を要求しない。
なお、この協約には有効期間についての規定は設けられていない。
⚫︎ 英露協約(1907年)とは
この記事が報じる英露協約とは、1907年8月31日(旧暦・ロシアでは批准交換は9月)に締結された英露協商(Anglo-Russian Convention)です。
19世紀を通じて、イギリスとロシアは中央アジアで激しく対立していました。この対立は「グレート・ゲーム」と呼ばれます。
しかし20世紀初頭になると、両国は対立を続けるよりも協調を選び、勢力圏を整理することにしました。
⚫︎ ペルシャ(イラン)の勢力圏分割
記事では「独立と領土保全を尊重する」とされていますが、実際の協約では、ペルシャは次のように勢力圏が区分されました。
- 北部:ロシアの勢力圏
- 南東部:イギリスの勢力圏
- 中央部:中立地帯
形式上は独立国のままでしたが、実際には両国が経済的・政治的影響力を分け合う内容でした。
このため、イランでは後に「主権を損なう協定」として強い反発を招きました。
⚫︎ アフガニスタンと「グレート・ゲーム」
19世紀、イギリス領インドとロシア帝国は中央アジアで勢力争いを続けていました。
アフガニスタンは、その緩衝地帯として重要でした。
協約では、
- ロシアはアフガニスタンへの政治的介入を控える。
- イギリスはアフガニスタンにおける優越的地位を維持する。
という形で対立を緩和しました。
これにより、両国間の長年の緊張は大きく和らぎました。
⚫︎ チベット問題
1904年には、フランシス・ヤングハズバンド率いるイギリス軍がラサへ進軍しました。
その後、イギリスとロシアは、チベットをめぐる対立を避けるため、
- チベットの内政へ干渉しない。
- ラサへ外交使節を置かない。
- 鉄道・鉱山などの利権を要求しない。
と取り決めました。
ただし、チベット側自身はこの協定の交渉に参加しておらず、清朝や列強による外交の対象とされていました。
⚫︎ 三国協商(トリプル・エンテンテ)の成立
英露協約は、すでに結ばれていた
- 英仏協商
- 露仏同盟
と結びつき、三国協商(Triple Entente)が完成しました。
これは、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアによる三国同盟に対抗する国際的枠組みとなり、第一次世界大戦前の国際政治に大きな影響を与えました。
日本にとっても、この協約は1902年締結の日英同盟と密接に関わる重要な外交動向として注目されました。
⚫︎ まとめ
- 1907年の英露協約は、イギリスとロシアが中央アジアでの対立を整理するために締結した協定である。
- 協約では、ペルシャ・アフガニスタン・チベットに関する相互の勢力範囲や不干渉が取り決められた。
- 表向きは独立尊重を掲げていたが、実際にはペルシャを勢力圏に分割する内容を含んでいた。
- この協約によって英仏協商・露仏同盟と合わせた「三国協商」が完成し、第一次世界大戦前の国際秩序形成に大きな役割を果たした。
- 当時の日本では、日英同盟との関連からこの協約が重要な国際ニュースとして報じられた。

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