(1907〈明治40〉年7月10日『東京朝日新聞』)(7月9日、北京発)
西太后 は、昨日8日、「立憲準備」に関する上諭(皇帝の詔書)を発した。その大要は次の通りである。
立憲政治というものは、政府と人民が心を一つにして協力することによって成り立つものである。そのため今後は、立憲準備およびその実施方法について、広く官民の意見を集め、参考に供することとする。間接的な上奏権を持つ者は、北京にいる場合には都察院を経由し、地方にいる場合には地方長官に上奏を取り次いでもらって建議すべきである。
さらに最後に付け加えて、この事業はすでに官民双方の責任である以上、官民ともに互いを戒め、すべて法律にかなうよう努め、国家の富強を実現しなければならない、と述べている。
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⚫︎「立憲予備」とは何か
これは、清朝末期に進められた「立憲君主制への移行準備」を意味します。
当時の中国(清朝)は、
- 日清戦争
- 義和団事件
などで大きな打撃を受け、
- 列強の半植民地化
- 財政悪化
- 軍事的弱体化
- 民族運動の拡大
に直面していました。
特に、日本が明治維新後に
- 憲法制定
- 議会開設
- 近代軍整備
を進めて急速に列強化したことは、清朝指導層に強い衝撃を与えました。
⚫︎ 西太后と「立憲改革」
西太后 は長く保守派の象徴と見られていました。
実際、1898年の戊戌の変法では改革派を弾圧しています。
しかし義和団事件後、清朝体制の危機が深刻化すると、西太后自身も「改革の必要性」を認めざるを得なくなりました。
そこで始まったのが
- 新軍創設
- 科挙改革
- 地方自治整備
- 憲法調査
などを含む「清末新政」です。
この記事の「立憲予備の上諭」は、その流れの中にあります。
⚫︎ なぜ「意見募集」をしたのか
この詔書で注目されるのは、官民双方から意見を集めると述べている点です。
これは従来の専制政治から見ると大きな変化でした。
もっとも、実際には
- 皇帝権力維持
- 王朝延命
- 革命派の抑制
が本音であり、本格的な民主化ではありませんでした。
しかし、
- 地方議会設置
- 憲法論議
- 政党活動
などが徐々に広がり、中国近代政治の出発点の一つになりました。
⚫︎ 革命派との対立
同時期、日本には
- 孫文
- 梁啓超
ら中国亡命知識人が集まっていました。
彼らは、
- 革命による共和制
- 立憲君主制
- 漢民族中心国家
など異なる構想を議論していました。
清朝の「立憲準備」は、革命を回避しつつ王朝を維持する試みでしたが、多くの知識人や学生には「遅すぎる改革」と見なされました。
その結果、1911年の辛亥革命へとつながっていきます。
⚫︎ まとめ
この記事は、清朝が「立憲国家」へ転換しようとする姿勢を公式に示した重要史料です。
特に重要なのは、
- 西太后が立憲化を容認したこと
- 官民双方に意見提出を求めたこと
- 「法に基づく統治」を強調したこと
です。
ただし、この改革は
- 王朝維持目的
- 上からの限定的改革
- 実施の遅れ
という限界を抱えていました。
そのため、「改革による延命」を目指した清朝は、最終的には革命の波を止められなかったという歴史的結果に至ります。


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