(1907〈明治40〉年9月26日『福岡日日新聞』)
韓国では、新皇帝(純宗)と太皇帝(高宗)の別居問題が、宮廷内部の混乱ぶりを明らかにしている。また、新皇帝が負傷したとされる件も、実際には故意に負傷したように見せかけ、宗廟(太廟)への参拝や太皇帝との別居を先延ばしにするための苦肉の策ではないかとみられている。別居はなかなか実現せず、内閣も何度も諫言したが効果はなかった。
そこで内閣は日本の韓国統監へ報告し、統監から厳しい指示が送られた。その結果、太皇帝は夜間だけは重明殿へ戻ることになった。しかし、それでも太皇帝による新皇帝への干渉は続いており、新皇帝は皇帝の位についているだけで、実際には自由に政治を行えない状態であるという。さらに国政もほとんど進まず、大臣たちは「宮中の混乱がこれほどでは、宮廷内部の整理(廓清)はいつ実現するのだろうか」と憤っている者が多い。
今後、重大な政治問題が起こる可能性もある。また、宮内大臣・李允用と内大臣・閔丙奭の二人は、宮廷内の混乱に迎合しているとして、更迭される可能性があるとも伝えられている。
⚫︎ 高宗退位後の韓国宮廷
この記事は、1907年7月の高宗退位直後の韓国皇室内部の混乱を伝えています。
1907年、高宗は、ハーグ密使事件の責任を問われ、日本の強い圧力のもとで退位しました。
後を継いだのが皇太子であった純宗です。
しかし、退位後も高宗はなお大きな影響力を保持していました。
⚫︎ 「別居問題」とは
記事にある皇帝・太皇帝御別居問題とは、退位した高宗と即位した純宗が政治的にも生活上も完全に分離する問題です。
通常、退位した君主は政治から退くことになります。
しかし高宗は
- 宮廷内の人事
- 官僚への指示
- 皇帝への助言
などを続け、実質的に政治へ関与していました。
そのため、日本の統監府や韓国内閣は、新皇帝の権限を明確にするため別居を求めていました。
⚫︎ 伊藤博文統監の介入
記事中の統監とは、伊藤博文です。
1905年の第二次日韓協約によって設置された統監府は、韓国政府より上位の政治的影響力を持っていました。
記事では、韓国内閣が解決できなかった問題を統監へ報告し、伊藤が直接指示した結果、ようやく一部解決したとしています。
これは、当時すでに韓国皇室の問題までも統監府が介入していたことを示しています。
⚫︎ 「宮中廓清」の意味
記事の宮中廓清とは、宮廷内部の
- 派閥
- 腐敗
- 権力争い
を整理・一掃することです。
当時、日本側や統監府は韓国政府改革の障害として宮廷政治を批判していました。
ただし、この記事は日本の新聞であるため、宮廷の混乱を強調する論調となっています。
韓国側から見ると、これは日本の政治介入を正当化するための報道でもありました。
⚫︎ 李允用・閔丙奭とは
記事では、更迭される可能性がある人物として
- 李允用
- 閔丙奭
の名前が挙げられています。
いずれも韓国皇室の中枢にいた人物で、宮廷内で高宗を支える立場にあったとみられていました。
そのため、統監府や改革派からは改革の妨げと見なされることがありました。
⚫︎ まとめ
- 1907年、高宗退位後も韓国皇室では高宗と純宗の権限をめぐる混乱が続いていた。
- 日本の新聞は、高宗による政治介入や別居問題を「宮廷の乱脈」として報じている。
- 統監・伊藤博文が宮廷問題にも直接介入し、韓国内閣だけでは解決できない状況が生まれていた。
- 宮廷内の対立は、清算すべき課題として「宮中廓清」と表現されている。
- この記事は、日本による韓国統治強化の過程で、皇室内部の混乱がどのように報道されたかを知るうえで重要な史料である。

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