(1907〈明治40〉年9月25日『報知新聞』)
清朝では現在、八旗兵制度の廃止が重要な政治改革の課題となっている。今回の清朝政府の改革案では、憲法制定(立憲政治)の準備など多くの政策は比較的順調に進んでいるが、満州人と漢人との身分上の区別をなくす改革だけは、朝廷内外で反対意見が多く、容易には決まりそうにない。そもそも八旗(はっき)の旗人とは、明を征服した満州人やモンゴル人の子孫であり、日本の封建時代の武士のように、兵士としての地位を世襲し、政府から俸給を受けて生活していた人々である。また、結婚も基本的に同じ旗人同士に限られるなど、政治・社会の両面で特別な身分と特権を持ち、漢人との間には大きな身分差があった。
さらに、漢人の反乱を防ぎ鎮圧するため、江蘇・陝西・湖南・福建・四川・浙江・広東・甘粛などの重要地域には八旗兵が駐屯し、駐防将軍がこれを統率していた。しかし、少数の満州人によって多数の漢人を支配する体制には行政上さまざまな弊害があった。
そこで袁世凱らは、
・各地の八旗駐屯制度を廃止すること
・旗人を一般の戸籍へ編入すること
・駐屯地の行政を各地方の総督・巡撫に移管すること
・世襲の俸給を廃止し、自力で生計を立てさせること
を提案している。
この案は時代の流れから見て避けられない改革だと考えられており、五大臣会議では表向き大きな反対は見られない。しかし実際には、旗人の間には強い反発が広がっている。改革が実施されれば生活の基盤を失うことになるため、彼らは現在、必死に反対運動を行っているという。その成り行きによっては、現在進められている清朝の政治改革全体が挫折する可能性もある、と記事は伝えている。
写真・図引用:https://warhistory.org/article/banner-system-1601-1912
⚫︎ 八旗制度とは何か
記事の中心となる八旗制度は、八旗制度です。
これは17世紀初頭に、ヌルハチが創設し、その子のホンタイジが発展させた軍事・行政制度でした。
旗人は単なる兵士ではなく、
- 軍人
- 官僚候補
- 特権身分
を兼ねた存在でした。
彼らには俸給や土地が与えられ、清朝支配の中核を担いました。
⚫︎ 満州人と漢人の身分差
清朝は少数派である満州人が、多数派の漢人を統治する国家でした。
そのため、
- 満州人
- 漢人
との間には制度的な区別がありました。
記事にあるように、
- 結婚
- 居住
- 官職
- 軍務
などに違いが設けられていました。
19世紀後半になると、太平天国の乱などを経て、実際には漢人官僚や漢人軍閥の力が強まり、八旗兵は軍事力としても次第に弱体化していました。
⚫︎ 袁世凱による改革
記事に登場する袁世凱は、当時最も有力な改革派官僚の一人でした。
彼は
- 新軍の創設
- 行政改革
- 教育改革
- 憲政準備
などを推進しました。
その一環として、満州人と漢人を法的に平等に近づける改革を進めようとしました。
記事のいう「旗人を一般民籍へ」という案は、特権身分の廃止を意味しています。
⚫︎ 清末新政(新政改革)
この記事は、1901年以降に始まった清末新政の一場面です。
義和団事件後、清朝は
- 憲法制定準備
- 教育制度改革
- 軍制改革
- 行政改革
を急速に進めました。
しかし、改革は
- 満州貴族
- 漢人官僚
- 地方勢力
それぞれの利害が対立し、容易には進みませんでした。
⚫︎ この改革の歴史的意味
この記事が伝える問題は、単なる軍隊改革ではありません。
「満州人による支配体制を維持するか、それとも近代国家として平等な国民国家へ転換するか」という、清朝そのもののあり方を左右する問題でした。
結局、こうした改革は十分に進まず、そのわずか4年後の1911年、辛亥革命によって清朝は滅亡します。
八旗制度も、この革命の中で事実上終焉を迎えました。
⚫︎ まとめ
- 清朝では1907年、八旗制度の廃止と満州人・漢人の身分統合が重要な改革課題となっていた。
- 袁世凱らは、八旗兵の駐屯制度や世襲俸給を廃止し、旗人を一般国民と同じ戸籍に編入することを提案した。
- しかし、生活基盤を失う旗人たちは強く反対し、改革は難航した。
- この問題は、清朝の近代化改革(清末新政)の中心課題の一つであり、国家体制そのものに関わる重要な論点であった。
- 改革は十分な成果を上げられず、1911年の辛亥革命による清朝滅亡へとつながっていく。

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