(1907〈明治40〉年8月30日『東京朝日新聞』、8月27日北海道庁発)
北海道庁の発表によると、8月25日午後10時30分ごろ、函館区東川町21番地から火災が発生した。その日は東から非常に強い風が吹いていたため、火はたちまち周囲へ燃え広がり、末広町、大町、東浜町、恵比須町、東来町などを含む35町に延焼し、約1万戸が焼失した。
火は翌26日午前9時ごろにようやく鎮火した。
焼失した主な建物は、
・イギリス領事館
・ロシア領事館
・北海道庁函館支庁
・連隊区司令部
・海事局
・電話交換局
・函館警察署および巡査派出所5か所
・商船学校・商業学校・高等女学校など計12校
・公立病院を含む10か所の病院
・神社2社
・寺院6か所
・教会4か所
・新聞社2社
・銀行7行
・日本郵船支店など11社
・劇場4か所
など、多数に及んだ。
現在までに確認された死傷者は7人であるが、そのほかについては調査が続けられている。出火原因は、現時点では過失(失火)とみられている。避難民救護所は区役所など計8か所に設けられ、現在約3,300人が救護を受けている。また、学校などに安置されていた御真影(天皇・皇后の肖像写真)は、すべて無事に安全な場所へ移された。
写真・図引用:https://www.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/contents/photo/l/0B015160000000003.jpg
⚫︎ 「明治40年函館大火」とは
この記事が伝えているのは、1907(明治40)年8月25日に発生した函館大火です。
函館は、
- 横浜
- 神戸
- 長崎
と並ぶ日本有数の国際港であり、多くの外国領事館や商社が置かれていました。
木造家屋が密集する市街地で強風が吹いたため、火災は一晩で市街地の大半へ広がりました。
約1万戸焼失という被害は、当時の日本でも最大級の都市火災でした。
⚫︎ なぜ函館では大火が多かったのか
函館は、
- 木造建築が密集
- 坂の多い地形
- 海風が強い
- 消防設備が未発達
という条件が重なり、江戸時代から大火が繰り返されていました。
特に強風時には火の粉が遠くまで飛び、一気に市街地へ延焼する危険がありました。
1907年の大火も、東風によって短時間で広範囲へ燃え広がりました。
⚫︎ 外国領事館も焼失
記事では、
- イギリス領事館
- ロシア領事館
も焼失したと報じています。
当時の函館は国際港であり、
- イギリス
- ロシア
- アメリカ
- 中国
など各国との貿易が盛んでした。
外国領事館の焼失は、日本国内だけでなく国際的にも注目される出来事でした。
⚫︎ 「御真影」が特に報じられる理由
記事の最後には、「御真影は無事他に奉還す」とあります。
御真影とは、明治天皇と昭憲皇太后の肖像写真です。
明治時代の学校では御真影は極めて神聖なものとされ、
火災時には
- 教員
- 校長
- 軍人
などが命がけで持ち出した例も少なくありません。
そのため新聞でも、「御真影は無事だった」ことが重要事項として報じられています。
これは当時の国家観や教育制度を理解する上で重要な記述です。
⚫︎ 復興と都市改造
この大火を契機として函館では、
- 防火道路
- 耐火建築
- 消防施設
- 上水道
など都市基盤の整備が進められました。
しかしその後も、
- 1921年
- 1934年
などに再び大火が発生しており、函館は「火災の町」とも呼ばれるほど火災との闘いを続けることになります。
⚫︎ まとめ
この記事は、1907年8月に発生した函館大火の第一報です。
東風によって火災は急速に広がり、約1万戸が焼失し、外国領事館、学校、病院、銀行など都市機能の多くが失われました。
新聞は被害状況だけでなく、救護活動や御真影が無事だったことも詳しく伝えており、当時の社会や価値観をよく表しています。
この火災は近代都市・函館の歴史における大きな転換点となり、その後の防火・都市計画の整備を促す契機となりました。


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