(1907〈明治40〉年9月6日『福岡日日新聞』)
北京からの電報によると、袁世凱と張之洞の両総督が新たに軍機処(清朝最高の政策決定機関)のメンバーとなり、さらに袁世凱は外務部尚書(外務大臣)を兼任することになったという。しかし、これは満州族を中心とする北京政府にとって、大きな政治的変化であることは間違いない。表面的に見れば、この人事は改革派の勝利であり、漢民族出身の官僚が勢力を伸ばしたことを意味するように思われる。
しかし、満州族の支配層が本当に恐れていたのは、両総督が中央政府に入って権力を握ることではなく、むしろ地方で軍隊を掌握し、その勢力を強めることだった。当時、両総督の率いる近代的な陸軍は、清朝における最も有力な軍事力となっていた。そのため、満州族政府は以前から何度も両総督を地方から異動させ、軍の指揮権を取り上げようとしてきた。最近になって満州族の政府が意外にも立憲政治の導入に賛成する姿勢を見せ始めたのも、こうした事情と無関係ではない。今回の任命が、本当に両総督を中央へ呼び寄せて地方の兵権を奪うためのものなのかどうかは、電報だけでは判断できない。
しかし要するに、袁世凱や張之洞が中央の保守派を退け、満州族と漢民族の対立をなくして政治改革を進めようとしているのに対し、満州族側は彼らの地方での勢力基盤を弱めるためなら、中央政府の高い地位を与えることさえためらわない――これだけは明らかな事実である。
写真・図引用:https://www.thecollector.com/yuan-shikai-chinese-general-emperor/?utm_source=chatgpt.com
⚫︎ 清朝末期最大の権力闘争
この記事は、清朝末期(1907年)の北京政界における権力闘争を報じています。
1901年の義和団事件敗北後、清朝は国家存続の危機に直面し、
- 軍制改革
- 教育改革
- 官制改革
- 憲法制定(立憲政治)
などの近代化政策(「新政」)を進めていました。
その中心人物が、袁世凱と張之洞でした。
⚫︎ 袁世凱とは
袁世凱は、中国近代史を代表する政治家・軍人です。
彼は、
- 北洋軍の創設
- 近代陸軍の育成
- 行政改革
を推進し、当時最も強力な軍事力を握っていました。
記事でも、「地方の兵権を持つこと」こそが北京政府の最大の警戒対象だったと述べています。
実際、この北洋軍は後に辛亥革命や中華民国成立に決定的な役割を果たします。
⚫︎ 張之洞とは
張之洞は、湖北・湖広総督として、
- 鉄道建設
- 製鉄所建設
- 学校設立
- 新式軍隊整備
を進めた改革派官僚でした。
彼は「中学為体、西学為用」(中国の伝統を基礎とし、西洋技術を取り入れる)という思想で知られています。
⚫︎ 満州族と漢民族の対立
この記事では繰り返し
- 満人
- 漢人
という言葉が登場します。
清朝は1644年以来、満州族王朝でした。
人口の大多数は漢民族でしたが、
- 皇族
- 軍
- 中央官僚
の要職は満州族が占めることが多く、政治的な緊張関係が続いていました。
改革派には漢民族出身者が多く、保守派には満州族官僚が多かったため、人事そのものが民族問題とも結び付いていました。
⚫︎ 「立憲」の背景
1906年、清朝は正式に「立憲準備」を宣言しました。
これは、
- 日本(明治憲法)
- ドイツ
- イギリス
などを参考に立憲君主制へ移行する計画でした。
しかし記事が指摘するように、満州族支配層が立憲を支持した背景には、「改革そのもの」だけでなく、地方軍閥の勢力を抑える政治的意図もあったと当時の日本では分析されていました。
現代の研究でも、このような権力均衡の観点は重要な要素と考えられています。
⚫︎ まとめ
この記事は、1907年の袁世凱・張之洞の中央政府入りをめぐる政治人事を、単なる昇進ではなく、清朝内部の権力闘争として分析しています。
新聞は、
- 改革派の勝利
- 漢民族官僚の台頭
という表面的な見方だけでなく、
満州族支配層が地方軍を掌握する袁世凱らの勢力を削ぐため、あえて中央の高官に登用した可能性を指摘しています。
その後、袁世凱は1911年の辛亥革命で再び政界の中心に返り咲き、翌1912年には中華民国初代大総統となります。その意味で、本記事は辛亥革命直前の清朝内部の複雑な権力構造を伝える貴重な史料といえます。


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