(1907〈明治40〉年9月7日『福岡日日新聞』)
昔からの習慣を固く守ってきた韓国の人々も、突然「断髪令」が出され、大切にしてきた長い髪を五分刈り程度まで短くしなければならなくなった。そのため、身分を問わず多くの人々が困惑していた。このため、親日団体である一進会は断髪を広める目的で、各地へ演説員を派遣して奨励活動を行っていた。
また、この命令によって利益を得ようと、日本本土から韓国へ渡ってきた気の早い日本人理髪師もおり、その商売の機敏さが話題になっていた。ちょうどその頃、仁川の京城通りには韓国人経営の理髪店が4軒ほど開業していた。店名は「日進床」や「郡城床」といった日本風の名称で、店の造りも日本の理髪店とほとんど変わらず、流行を取り入れた近代的な店構えだった。料金は大人15銭、子ども7銭5厘で、毎日15人から20人ほどの客が訪れていた。長年大切にしてきた髪を惜しみながら切る韓国人の姿を見ると、日本でも明治初年に断髪が広まった頃を思い起こさせ、たいへん印象深い光景であったという。
写真・図引用:https://koreanmedals.com/empire-orders-found-in-pictures/?utm_source=chatgpt.com
⚫︎ 韓国統監府と1907年の断髪令
1907年7月、韓国皇帝・高宗が退位し、純宗が即位しました。同時に締結された第三次日韓協約(丁未七条約)によって、日本の統監府は韓国政府への支配力をさらに強めました。
その流れの中で進められた近代化政策の一つが断髪の奨励でした。
韓国では男性が結婚後に髪を伸ばして頭頂で髷(サントゥ)を結ぶことが儒教的な伝統であり、「身体髪膚は父母より受く」という思想から髪を切ることには強い抵抗感がありました。
⚫︎ 一進会とは
記事に登場する一進会は、1904年に結成された韓国最大の親日政治団体です。
中心人物は、
- 宋秉畯
- 李容九
らで、日本による近代化政策を支持していました。
記事にある「遊説委員」とは、地方を巡回して断髪や改革の必要性を説く宣伝員のことです。
⚫︎ 日本人理髪師が渡韓した理由
記事が伝えるように、日本人理髪師の中には需要の急増を見越して韓国へ渡る者がいました。
一方で韓国人も日本式理髪店を次々と開業し、日本風の店舗や看板を掲げて営業していました。
記事の「日進床」の「床」は当時の理髪店を意味する「○○床(とこ)」という屋号です。
料金を見ると
- 大人:15銭
- 子ども:7銭5厘
となっており、日本とほぼ同水準の価格だったことが分かります。
⚫︎ 日本も経験した「断髪」
この記事の最後で記者は「我国の維新当時をも偲ばれて」と述べています。
これは日本でも1871(明治4)年に散髪脱刀令が出され、多くの男性がちょんまげを切ったことを思い起こしているのです。
日本でも当初は
- 「先祖への不孝」
- 「武士らしさが失われる」
として反対する人が少なくありませんでした。
つまり、記者は韓国で起きている断髪騒動を、日本が約35年前に経験した出来事と重ね合わせて見ています。
⚫︎ 当時の新聞報道として読む際の注意
この記事は福岡日日新聞の記事であり、日本の植民地政策を肯定的に見る視点で書かれています。
例えば
- 「旧習を墨守する」
- 「気早の理髪師」
- 「ハイカラ式」
といった表現には、日本の近代化を進歩とみなし、韓国社会を「改革される側」と見る価値観が反映されています。
実際には断髪政策に対する韓国国内の反発は非常に強く、多くの人々は文化や儒教的価値観を守ろうとして抵抗しました。したがって、この記事は当時の日本側メディアの見方を示す史料として読むことが重要です。
まとめ
- 1907年、日本の影響力が強まった韓国で断髪が奨励された。
- 一進会は地方へ宣伝員を派遣し、断髪の普及活動を行った。
- 日本人理髪師は新たな需要を見込んで韓国へ渡り、韓国人も日本式理髪店を開業した。
- 韓国では伝統的な髪型を切ることへの抵抗感が非常に強かった。
- 記事は、日本の明治初期の断髪と比較しながら、日本の近代化を肯定的に描く当時の新聞らしい論調となっている。


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