1907年11月30日 東京市内の高架鉄道とその現状―明治32年に着工して、いまだ完成せず

1907年

(1907年11月30日・時事新報)
 東京市内に高架鉄道を建設する計画は、全国から東京へ集まってくる交通機関を東京市の一地点に集中させ、鉄道同士の乗り継ぎ・輸送の連絡を便利にすることを目的としている。その設計はドイツ人のバルチエル氏が担当し、明治32年(1899年)に用地買収を始め、翌33年(1900年)に工事に着手した。
 しかし、日露戦争中には工事を一時中止せざるを得なくなった。その後、1906年3月に再び工事を開始し、工事を急いだ結果、現在では、芝・浜松町にある新橋―品川間の線路との分岐点から中央停車場まで、約2マイル(約3.2km)にわたるレンガ造りの高架橋がすべて完成している。途中、道路をまたいで架ける必要がある鉄橋は全部で12か所あるが、そのうち8か所が完成した。残り4か所については、必要な鉄材を外国から輸入しなければならないことや、加工に時間がかかることなどから、まだ架設できていない。これらも1908年3~4月ごろまでには完成する見込みである。
 今回の工事で最も困難だったのは、地盤が軟弱だったことである。そのため、地下に直径約1尺5寸(約45cm)、長さ10間(約18m)にもなる松の丸太を打ち込んだ。この松杭だけでも1,000本以上に及んだ。このように地盤を十分に固めるため、基礎工事をしっかり行ったうえ、さらに鉄橋部分と枕木の間には大量の土砂を詰めた。そのため、線路近くに住んでいる人々も、列車が運転されるようになっても、地盤の振動や騒音をあまり感じずに済むだろうとされている。
 なお、鉄道を完成させるためには、中央停車場と烏森停車場の2駅を新設しなければならない。しかし、烏森停車場については、まだ設計すら完成していない。そのため、この高架鉄道の開通は明治43年(1910年)中になるだろうと見込まれている。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/196

写真・図引用:https://smtrc.jp/town-archives/city/shiba/p03.html?utm_source=chatgpt.com

⚫︎ これは現在の「東京駅~新橋~品川」の原型

この記事で非常に重要なのは、ここでいう「中央停車場」=後の東京駅だということです。

つまり1907年のこの記事は、東京駅を中心として、東京市内の鉄道を高架線で結ぶ工事について報じています。

現在の東京駅は1914年(大正3年)に開業します。

この記事が書かれた1907年は、まさに東京駅建設と東京市内の鉄道高架化が進められていた時期なのです。

⚫︎ 「中央停車場」はなぜ必要だったのか

当時、東京周辺には複数の鉄道会社・路線がありました。

特に重要だったのが、

 新橋方面の鉄道 + 上野方面の鉄道

です。

東京の鉄道網が発達すると、各路線をできるだけ効率よく接続する必要が生じました。

そこで東京の中心部に大規模な駅を建設し、東京の鉄道交通を一つの中心に集めるという構想が生まれました。

これが「中央停車場」、後の東京駅です。

⚫︎ なぜ高架鉄道にしたのか?

当時の東京は人口が急増していました。

地上に鉄道を敷くと、鉄道 × 道路 × 市街地がぶつかってしまいます。

そこで、鉄道を道路の上に上げるという高架方式が採用されました。

これによって道路交通と鉄道を立体的に分離できます。

現在の東京の鉄道網では当たり前になっている、「鉄道の高架化」のかなり早い段階の事例です。

⚫︎ 最大の敵は「軟弱地盤」

この記事で特に面白いのが、地盤改良についての記述です。

東京の中心部には、江戸時代以来の埋立地や低湿地が多く、場所によっては非常に軟弱な地盤でした。

そのため高架橋を建設する際、長さ約18mの松杭を地下に1,000本以上打ち込むという大規模な基礎工事を行いました。

つまり100年以上前の東京でも、軟弱地盤+巨大都市+鉄道建設という、現代の東京と共通する問題に直面していたわけです。

⚫︎ 鉄材は海外から輸入

記事には、「鐡材の輸入すべきもの」とあります。

当時の日本では製鉄業が急速に発展していましたが、大型構造物に使う鉄材をすべて国内で安定して供給できる段階にはまだありませんでした

そのため、鉄橋などには海外から輸入した鉄材が使用されました。

ここにも、日本の工業化が急速に進んでいるものの、まだ欧米に依存している部分が残っていたという明治末期の特徴を見ることができます。

⚫︎「明治32年着工なのに、なぜ1910年までかかったのか?」

記事の見出しは、「明治三十二年起工して今に竣工せず」です。

1899年に始めたのに、1907年になっても完成していません。

最大の理由の一つが日露戦争(1904~05年)です。

記事にも、「日露の戦役中一時中止」と明記されています。

戦争中は国家の資金・資材・人員が軍事目的に優先的に振り向けられました。

その結果、東京の都市鉄道工事は一時中断しました。

1906年3月になってようやく再開され、1907年時点では急ピッチで工事が進められていたわけです。

⚫︎「烏森停車場」とは?

記事に出てくる「烏森停車場」は、現在の新橋駅につながる重要な駅です。

当時は現在の新橋駅とは位置づけが少し異なります。

この工事では、

新橋・浜松町方面
 ↓
高架線
 ↓
中央停車場(東京駅)
 ↓
さらに北へ

という都市鉄道網が形成されようとしていました。

そして最終的に1910年代に入り、東京駅を中心とする現在の東京の鉄道ネットワークの基礎が形づくられていきます。

⚫︎ まとめ

この記事は、現在の東京駅と東京の高架鉄道網が誕生する直前の様子を伝える非常に興味深い記事です。

ポイントをまとめると、

  • 1899年に東京市内高架鉄道の工事開始。
  • 日露戦争中に一時中断。
  • 1906年に工事再開。
  • 1907年には浜松町方面から中央停車場(東京駅)まで約3.2kmの高架橋が完成
  • 軟弱地盤のため、長さ約18mの松杭を1,000本以上使用。
  • 鉄橋12か所のうち8か所が完成。
  • 中央停車場と烏森停車場の整備が残っていた。
  • 開通予定は1910年

つまりこの記事は、「東京が、近代的な鉄道都市へ変貌していく途中の姿」を記録した史料です。

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