(1906年3月11日・報知新聞)
本日行われるはずであった乃木大将の二人の御子息の葬儀は、急遽予定を変更し、昨日執り行われることとなった。大将は、墓地まで参列できない人たちのために、あらかじめ自邸裏手にある松林の中に、伊勢神宮と郷里の氏神を祀った小さな祠の前に広場を整え、新しい菰(こも)を敷いて祭壇を設けさせた。
そして午前10時、近親6~7名とともに、家内に安置されていた二人の遺骨を祭壇正面に据え、神酒・神饌を白木の三方に載せて供え、氷川神社から招かれた神官2名が神饌と幣帛の儀式を執り行った。その後、大将と夫人を含む30名余りの親族が順に玉串を捧げ、無言のまま深い悲しみに耐え礼拝した。式は午前11時頃に終わり、大将は正装にて先頭に立った。兄・勝典中尉の遺骨は、生前従卒を務めていた第一連隊の佐々木伍長が、弟・保典少尉の遺骨は、同じく生前の従卒であった後備第一連隊の松浦上等兵が捧げ持った。見送りは計十三名であった。
儀式には旗も榊もなく、極めて静かに邸を出発した。門の両側に佇む大将夫人ら親族の女性たちは、遺骨の列を見送り、大将の後ろ姿を見つめて涙を抑えきれず、手巾で目を拭う姿も見られた。無理もないことである。
また、儀式が乃木大将の息子たちの葬儀であると知って、途中から道行く人々も列に加わった。しかしあまりの質素さから、日露戦争で多くの将兵を失った責任を胸に秘める大将の思いを察し、皆涙をこらえ静かに歩を進めた。空はそれまで薄日が差していたが、次第に曇り、もの寂しい情景を一層強めた。
乃木家の墓地は青山墓地の北東の端にあり、麻布第三連隊射撃場の裏手に位置する。敷地はわずか六坪ほどで、周囲には垣や柵もなく、先祖・巌父十郎氏の石碑と、前に植えられた二本の榊、ほか五~六基の墓石があるだけである。二人の墓碑は十郎氏の碑の隣に同じ形で二基建てられており、一行がそこに到着すると、大将はまず勝典氏の遺骨を従卒から受け取り、白布に包まれたまま墓石の穴に納め、続いて保典氏の遺骨も同じように納めた。
大将の自筆で正面には「歩兵中尉 乃木勝典の墓」、「歩兵少尉 乃木保典の墓」と記され、側面には二人の生年月日と戦死の状況が簡潔に刻まれた。
● この出来事の位置づけ
二人の息子、勝典と保典は日露戦争中に戦死。
乃木希典(のぎ まれすけ)大将は 児玉源太郎とともに旅順攻略の中心人物 であったが、莫大な犠牲者を出したことに強い 自責の念 を抱いたとされる。この記事は、その心理的背景と儀式の異様なまでの質素さ に焦点を当てている。
● なぜ「密葬」なのか?
理由として推測される歴史的背景:
1. 華美な葬儀を避ける武士的精神・清貧性
2. 自らの作戦で多くの兵が戦死した負い目
3. 息子たちも「兵と同じ立場」と扱う意思表示
4. 世間の注目・美化を避けたかった
乃木は終生戦死者への悔恨を抱き、後年の「殉死」との関係でも重要史料となる記事である。
● のちの歴史との関連
年 出来事
1906年 本記事の密葬
1912年 明治天皇崩御 → 乃木夫妻 殉死
1912年以降 「忠君・武士道」の象徴化、「国民道徳」の模範へ
乃木の人物像は、後の日本の 「忠誠」「自己犠牲」 の教育イメージ形成に強い影響を与えた。


コメント