1906年02月13日 小島烏水ら、山岳会を設立

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.44

(1906年2月13日、読売新聞)
よみうり抄
山岳会の設立
 登山家の小島烏水(こじま・うすい)氏は、法学士の城数馬(じょう・かずま)氏、高田元吉(たかだ・もときち)氏、高頭式(たかとう・しき)氏らと協議のうえ、ヨーロッパのアルプス倶楽部(Alpine Club)を手本として、山岳研究を目的とする団体「山岳会」を設立した。年に2回、機関誌『山岳』を発行する予定で、その第1号は今月下旬に刊行される見込みである。

「山岳会」誕生 ― 日本登山史の出発点

 この記事が報じる「山岳会」は、現在の日本山岳会(Japan Alpine Club)の創立を指しています。
  創立:1905年(明治38年)10月14日
  公表(新聞報道):翌年1906年初頭
 日本山岳会は、日本における**近代登山(アルピニズム)**を最初に組織的に展開した団体であり、この記事はその誕生を伝える貴重な一次史料です。

創立者・小島烏水とは

 小島烏水(こじま うすい、1873–1948)は、横浜生まれの銀行員・随筆家で、明治期の登山文化の開拓者です。
  • 幼少期に外国人居留地の文化に触れ、欧米的な自然観やスポーツ思想を吸収。
  • 英国の登山雑誌や写真に影響を受け、「登山を学問と芸術の融合」と捉えた人物です。
  • 日本の山を西洋的な「風景美」として再発見する運動を推進しました。
 烏水は後に多くの随筆(『日本アルプスの登山と探検』など)を残し、日本人の自然観を一変させた文化人でもあります。

西洋「アルピニズム」の影響

 記事中の「欧洲アルプス倶楽部(Alpine Club)」は、1857年創立の英国アルパイン・クラブを指しています。19世紀のヨーロッパでは、登山は宗教的修行ではなく、科学・探検・スポーツ・芸術を兼ねた近代的活動として確立していました。
 明治日本では、それまでの「山岳=信仰の場(修験道)」という伝統観から、「山岳=自然の美を楽しみ、科学的に研究する対象」という新しい価値観への転換が起きようとしていたのです。山岳会は、まさにこの転換を担う組織でした。

創立メンバー

 記事に見える人物の多くは、当時の知識人・学者・官僚階層に属していました。

氏名 背景・職業 備考
小島烏水 銀行員・随筆家 登山思想の先駆者、日本山岳会初代幹事
城数馬 法学士・後に衆議院議員 法律家であり登山家
高田元吉 官僚・登山愛好者 会の初期メンバー
高頭式 鉱山学者・地質学者 山岳研究の科学的基盤を支えた人物

このように、「山岳会」は単なる趣味の団体ではなく、知的・学術的登山団体として出発した点が大きな特徴です。

機関誌『山岳』

 記事の最後にある「機関雑誌『山岳』」は、1906年(明治39年)2月創刊の『山岳』(The Journal of the Alpine Club of Japan)を指します。
 この雑誌には、
  • 登山記録
  • 山岳地理・地質の研究
  • 写真・地図・紀行文
などが掲載され、日本の山岳文化を形づくる中心的役割を果たしました。創刊号には、小島烏水の随筆「日本アルプスの印象」などが掲載されています。

日本における意義

 明治時代、日本では富士山や立山などが信仰の山として知られていましたが、それを「登る対象」「観察すべき自然」と見る視点はまだ一般的ではありませんでした。山岳会の設立は、信仰登山から学術登山・美的登山への転換点であり、後の日本登山文化(近代アルピニズム)の出発点となります。
 やがて同会からは、
  • 田部重治(随筆家)
  • 岡野金次郎(探検家)
  • 槇有恒(後にヒマラヤ遠征の成功者)
など多くの著名な登山家が輩出されました。

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