(1906年2月7日、時事新報)
日本基督教婦人矯風会(にほんきりすときょうふじんきょうふうかい)の代表・矢島楫子(やじま かじこ)をはじめとする890名の婦人たちは、衆議院議員の島田三郎氏の紹介によって、下記の内容の請願書を衆議院に提出した。
一、海外における日本人女性の売春(遊女)を厳重に取り締まり、これに対する適切な法律を制定してほしい。
一、刑法および民法のうち、姦通に関する規定を改正してほしい。
(具体的には、
・有妻の男性(妻のいる男性)の姦通も処罰対象とすること、
・妻のある男性が妾を囲ったり、芸者や娼妓と関係を持つことも姦通罪と見なすこと、
などを求める内容である。)
婦人矯風会とは
日本基督教婦人矯風会(にほんきりすときょうふうかい)は、1886年(明治19年)に設立された女性の道徳・禁酒運動団体です。創立者はこの記事に名の見える矢島楫子(やじま かじこ)。彼女は日本最初期のキリスト教婦人運動家で、女子教育・婦人解放運動の先駆者です。この団体はアメリカの「WCTU(世界女性禁酒連合)」に倣っており、酒・阿片・賭博・売春など風紀を乱すものの廃絶を目指して活動していました。
「蓄妾」「接妓」とは?
記事に出てくる二つの語は、当時の社会問題を象徴しています。
• 蓄妾(ちくしょう):妾(めかけ)を囲うこと。妻以外の女性を住まわせ、生活を保障して性的関係を持つこと。
• 接妓(せっき):芸者や娼妓を相手に遊ぶこと。つまり買春・宴席での性的交際を含む。
当時の日本では、こうした行為は「男性の自由」や「慣習」とされ、刑法上の罪(姦通罪)には問われませんでした。
当時の「姦通罪」は女性差別的だった
明治刑法(1880年代制定、1907年まで適用)においては、「姦通罪」は次のように定められていました。
妻が夫以外の男と姦通したときは、処罰される。
夫が他の女と関係しても、妾や芸者との関係なら処罰されない。
つまり――
姦通罪は女性(妻)にのみ適用される差別的規定だったのです。
妻が不倫すれば投獄され、
夫が妾を囲っても芸者と関係しても罪に問われない。
この不公平さを正そうとしたのが、矢島楫子らの請願でした。
「海外の売春婦取締り」ももう一つの焦点
矯風会はまた、「海外の売春婦取締り」も請願しています。明治期の日本では、多くの貧しい女性が「からゆきさん」として東南アジア・シベリア・南洋諸島などへ渡り、日本人男性客を対象とした売春業に従事していました。
彼女たちは人身売買的に送り出されることも多く、その実態は国際的に非難されていました。矯風会はこの現状を国辱とみなし、「政府は国外の遊女制度を取り締まれ」と訴えたのです。
請願の政治的意義
1906年(明治39年)当時、日本ではまだ女性には参政権も発言権もほとんどありませんでした。その中で、890名もの女性が連名で国会に請願したのは極めて先進的な行動です。請願の提出を仲介した島田三郎(1852–1913)は、キリスト教徒であり、自由主義的な政治家として婦人運動に理解を示した人物でした。
このように、矯風会の活動は単なる道徳運動ではなく、性差別的な法体系に対する女性たちの政治的抗議でもあったのです。
歴史的評価
この請願によってすぐに法改正が行われたわけではありませんが、その問題提起は明治後期の「婦人解放運動」の重要な一歩でした。
• 明治刑法の姦通罪は1913年に廃止され、戦後の新刑法(1947年)で完全に削除。
• 婦人矯風会はその後も「婦人の教育」「禁酒」「廃娼運動」に尽力し、1920年代には「女性参政権運動」と結びついていきます。


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