(明治39年1月1日 東京朝日新聞)
近ごろ、電車(路面電車)や自動車、自転車などの交通機関が発達してきたにもかかわらず、東京市の都市改正事業(道路整備・区画改正)は少しも進んでいない。そのため、ひき逃げ・衝突などの交通事故が頻発し、一般市民の安全を脅かす危険が少なくない。
そこで警視庁では、この際、交通各方面に対する取締りを一層厳重にするとともに、歩行者については、従来の「左側通行」を厳格に実施し、交通の安全を図る方針である、と伝えられる。
1. 当時の東京の交通事情
この記事の出た明治39年(1906年)は、東京の交通が急速に変化した時期でした。特に以下の3つが重なり、市街地は混乱を極めていました。
要因 内容
・電車の普及 1903年に東京電車鉄道(のちの都電)が開業し、市中を電車が走るようになった。
・自動車の登場 1900年代初頭から政府高官や富裕層が自動車を導入。1905年には警視庁に初の自動車登録制度ができた。
・自転車ブーム 「自転車会」や「自転車競走」が流行し、市民も自転車を利用し始めていた。
ところが、道路はまだ江戸時代以来の狭い道が多く、歩行者・馬車・人力車・自転車・電車・自動車が入り乱れるという混乱状態でした。
2. 「左側通行」徹底の動き
日本の左側通行の原則は、江戸時代以来の慣習として存在しました。侍が刀を左に差していたため、すれ違う際に鞘がぶつからないよう左側を通るのが礼儀だったのです。
しかし、明治以降に欧米の交通様式(右側通行)も入ってきたため、都市部では混乱が生じました。このため警視庁はたびたび「左側通行厳守」の布告を出しており、本記事もその再確認です。
<参考>
明治5年(1872年)には、太政官布告で「人馬ともに左側通行」が明記されています。しかし明治末期になると、車両交通の増加で守られなくなっていたのです。
3. 都市改造の遅れと警察行政
記事中にある「東京市区改正事業」とは、明治政府が進めていた都市インフラ整備計画(明治21年〜)のことです。道路拡幅や下水整備などを目指しましたが、予算難や地権者の反対で進捗が遅れていました。そのため、道路整備が追いつかないまま交通量だけが増えるという矛盾が生じ、警視庁(当時は内務省管轄)が警察権によって「交通整理」と「通行区分の厳守」を強調するに至ったのです。
4. 歴史的意義
この「左側通行の徹底」は、日本における近代交通行政の始まりを示すものです。
• 1903年 東京電車鉄道が開業
• 1905年 初の自動車交通事故が記録
• 1906年 本記事のように「左側通行」厳行を警視庁が宣言
• 1919年 道路取締令で「左側通行」が法制化
• 1920年代 信号機や交通巡査が登場
つまり、この記事は日本における近代交通秩序(信号・通行区分・取締り)確立の端緒を伝える記録なのです。
5. 現代との関係
現在、日本が左側通行なのは、こうした明治期の行政指導が制度化された結果です。とくに警視庁は早くから「歩行者も左、車両も左」という一貫方針を打ち出し、それが全国の交通法規の基礎となりました。


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