1906年01月13日 給仕斎藤富五郎 今は輝く海軍大臣

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.26

(1月13日、都新聞)
 新しい海軍大臣の斎藤実(まこと)氏は、藩閥(はんばつ=旧藩出身の政治的派閥)の支援がまったくなかったわけではないが、それ以上に人格が円満で学識に富み、どう見ても有能な人物であり、大臣としての器量を十分に備えた人である。
 この新大臣が仙台から東京に出てきたのは明治5年(1872年)のことである。最初に就いた職業は、水沢県出張所の給仕で、当時の名は「富五郎」といった。そのころ、会津東山の出身で、東京府の官吏をしていた田邊実明という人物がいた。田邊氏は、給仕の富五郎が人並みはずれて才気にあふれ、学問にも熱心であるのを見て感心し、自分のわずかな給料を割いて、富五郎を新設されたばかりの海軍兵学校に入学させてやった。
 そのとき富五郎青年は、田邊氏から林子平の『海国兵談(かいこくへいだん)』――日本の海防の重要性を説いた書――の話を聞かされ、大いに感激して海軍兵学校に入った。ところが翌年、富五郎は重い病にかかり、破れた毛布をかぶって寝込んでいた。その様子を聞いて駆けつけたのが田邊実明であった。
 富五郎はその親切に感謝し、もし自分が死んだ後のことまで懇々と託したという。すると田邊氏は言った
 「それなら、今ここで兄弟の契りを結ぼう。兄弟になれば、弟が兄の世話になるのも何の気兼ねもいらないだろう」
 そうして二人はその場で義兄弟の契りを結び、富五郎は田邊の「実(じつ)」の字をもらい、「斎藤実」と改名したのである。その後、病もすっかり治り、学業もすべて優秀な成績をおさめ、海軍兵学校の第1号卒業生として卒業証書を受け取った。
 そのときは世間からも大いに注目され、「将来の海軍を担う人物」として尊敬を集めたのである。いま田邊氏がどうしているかはわからないが、この話を読んだならば、新しい大臣もきっと昔を懐かしみ、深い感慨にふけることだろう。

斎藤実とはどんな人物か

  • 1848年(嘉永元年)仙台藩出身
  • 明治初期に上京し、海軍兵学校に入学
  • 海軍兵学校の第1期卒業生(1874年)
  • 海軍省・軍令部で昇進を重ね、最終的に海軍大臣・朝鮮総督・首相を歴任
  • 1936年の二・二六事件で暗殺されました。
 この記事は、斎藤の若き日を回想し、「貧しい給仕から努力で大臣にまで上りつめた立志伝」として紹介したものです。

田邊実明とは?

 田邊実明は史料的にはあまり有名ではありませんが、ここでは斎藤の恩人・義兄のような存在として描かれています。彼が斎藤を支援し、名の一字「実(じつ)」を与えたという逸話は、斎藤の人間的魅力と努力を象徴するエピソードとして、当時の新聞が好んで紹介した「美談」でした。

記事の意図

 この種の記事は、当時の新聞でよく見られる「立身出世物語」=努力と恩義を重んじる道徳的記事です。新大臣の就任に合わせ、彼の苦労話・恩人との絆を紹介することで、国民に「人格者としての斎藤像」を印象づけようとした意図があります。
 政治的には、藩閥(特に薩長出身)が支配的な海軍にあって、斎藤が非藩閥系(仙台出身)でも実力で上り詰めた点を強調しているのです。

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