(1907〈明治40〉年8月28日『東京朝日新聞』、8月26日甲府発)
甲府発の報道によると、水害が最も深刻だったのは、東八代郡石和村と、西山梨郡甲運村・国里村・清田村・山城村一帯である。現在もなお、浸水は約4尺(約1.2メートル)以上に達しており、舟による救助活動が続けられている。しかし、水の勢いが非常に強く、これまでに救助できた人は約200人にとどまっている。石和村の中島地区では、130戸のうち100戸が流失した。かろうじて生き残った50~60人の住民は、声を限りに助けを求めたものの、救助する手段がなく、水が引くのを待つしかなかった。また、東八代郡英村(現在の笛吹市付近)の石村地区は、村全体が土砂に埋まり、生存者は一人もいないと伝えられている。
今回の洪水による溺死者は、およそ500人と見積もられているが、これまでに収容された遺体はわずか3人である。石和税務署長も洪水で亡くなったが、遺体はまだ発見されていない。さらに、電話・電信は各地で途絶え、鉄道も甲府―韮崎間と甲府―石和間以外は不通となっている。南都留郡の笹子銅山(記事では「賽銅山」と表記)周辺の被害についても、通信が途絶えているため、詳細は分かっていない。
写真・図引用:https://isabou.net/knowhow/colum-rekishi/colum61.asp?utm_source=chatgpt.com
⚫︎ 明治40年(1907年)の山梨大水害
この記事が伝えるのは、1907(明治40)年8月に山梨県を襲った大洪水です。
台風や集中豪雨の影響で、笛吹川・釜無川・富士川水系が氾濫し、甲府盆地を中心に広範囲が浸水しました。
当時の新聞では「全村滅亡」という強い見出しが使われていますが、これは被害の甚大さを強調する表現でした。
実際に、一部の集落では土石流や洪水によって壊滅的な被害を受け、多数の犠牲者が出ました。
⚫︎ なぜ被害が大きくなったのか
当時の山梨県では、
- 河川改修が十分進んでいなかった
- 堤防が現在ほど強固ではなかった
- 山地の森林伐採による土砂流出
- 土石流への防災対策が未整備
などの事情がありました。
甲府盆地は周囲を山地に囲まれ、多くの河川が流れ込む地形のため、大雨の際には洪水が発生しやすい地域でした。
⚫︎ 通信・交通網の寸断
記事では、
- 電話
- 電信
- 鉄道
がほぼ機能停止したことが報じられています。
1907年当時、災害情報は主に
- 電報
- 鉄道輸送
- 新聞記者の現地報告
によって伝えられていました。
そのため、通信が途絶えると被害状況の把握や救援活動も大きく遅れることになりました。
これは近代日本の災害対応の課題を示しています。
⚫︎ 「全村滅亡」という表現について
記事には、「英村石村は全村土砂に埋もれ一人の生存者なし」とあります。
しかし、災害直後の新聞報道では情報が錯綜することが多く、その後の調査によって犠牲者数や被害状況が修正される例も少なくありません。
「全村滅亡」という表現は、当時の新聞が読者に災害の深刻さを伝えるために用いた見出しであり、史料として読む際には、その時点で得られた情報に基づく速報であることを考慮する必要があります。
⚫︎ 山梨県の治水事業への影響
この大水害を契機として、
- 河川改修
- 堤防整備
- 砂防工事
- 森林保全
などの治水対策が一層重視されるようになりました。
山梨県は江戸時代から「治水県」ともいわれ、近代に入っても富士川・笛吹川流域では継続的な河川改修が行われています。
1907年の水害も、その後の治水行政に大きな影響を与えた災害の一つでした。
⚫︎ まとめ
この記事は、1907年8月に山梨県で発生した大洪水について報じた災害速報です。
石和村をはじめとする各地では家屋の流失や土石流によって甚大な被害が発生し、多数の死者・行方不明者が出ました。また、電話・電信・鉄道が寸断されたため、被害の全容把握や救助活動は極めて困難な状況にありました。
この災害は、近代日本における自然災害の脅威と、当時の防災・通信・治水体制の限界を示す重要な史料です。同時に、その後の河川改修や砂防事業の推進につながる契機ともなりました。


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