(1908(明治41)年2月13日、萬朝報)
東京帝国大学医科大学の産科・婦人科の基礎を築いた濱田玄達博士の銅像が、同大学構内の産科・婦人科両病室の間に建立され、昨日午後2時30分から除幕式が行われた。まず木下博士が発起人を代表して、銅像を大学に寄贈する旨を述べ、続いて濱尾総長がこれを受領する旨を述べて幕を除いた。さらに、橋爪学士が立って濱田博士の経歴を述べ、博士が産科・婦人科に貢献した功績が非常に大きいことを語った。
これに先立ち、濱田博士が大学を卒業してから25周年を迎えたことを祝う催しがあり、知人・友人など470余人から150円余りの寄付金が集められた。そして昨夏、長沼守敬氏に依頼して2基の像を制作し、1基は大学に、もう1基は博士邸に据えることになったという。
式典に続いて、吾妻博士が頌徳辞を朗読した。その後、古くから婦人科の講座に関わり、前年に亡くなった寄山博士について、清水氏が講演を行った。さらに、ベルツ教授が1年間教授を務め、次いで濱田博士が担当するようになった経緯を述べ、濱尾総長も濱田博士が婦人科に尽くした功績や、地方医学に貢献したことなどについて語った。最後に濱田博士から謙譲の挨拶があり、午後3時10分に式を終え、休憩所で茶菓の接待が行われた。
◾️濱田玄達と日本の産婦人科学
濱田玄達(1854~1915)は、肥後国出身の医学者です。熊本の古城医学学校を経て大学東校に入り、1880(明治13)年に東京大学医学部を首席で卒業しました。その後ドイツのストラスブルク大学で産婦人科学を学び、帰国後の1888(明治21)年から帝国大学医科大学産婦人科学の第2代教授を務めました。東京大学も、濱田を日本の産婦人科学発展に重要な役割を果たした人物として紹介しています。
◾️ベルツから濱田へ―産婦人科学の専門化
記事に登場するエルヴィン・フォン・ベルツは、明治政府が招いたドイツ人医学者です。初代教授の清水郁太郎が早世した後、一時期ベルツら外国人教師が産婦人科教育を担当しました。その後、ドイツ留学から帰国した濱田が1888年に教授となり、日本人による専門的な産婦人科教育を担いました。記事が濱田を「医大婦人科確立」の人物として扱っているのは、この経緯によるものです。
◾️長沼守敬が制作した濱田玄達像
記事に「長沼守敬氏の手に依りて二基の像」とあるように、銅像を制作したのは彫刻家長沼守敬(1857~1942)です。東京大学に残る資料でも、長沼作の濱田玄達銅像が1908(明治41)年制作であることが確認できます。
記事によれば、同じ像が2基作られ、1基が東京帝国大学、もう1基が濱田邸に置かれました。本人が存命中に、門下生・知人らによってその功績を顕彰する銅像が建立されたことになります。
◾️銅像は戦時中の金属回収も乗り越えた
濱田像にはその後も興味深い歴史があります。太平洋戦争末期の1944(昭和19)年、東京大学の銅像も金属類回収の対象となり、濱田像も台座から取り外されました。しかし、大学の調査では実際に供出された記録はなく、学内に残されたまま終戦を迎えたと考えられています。
現在、東京大学総合研究博物館には、同型のセメント製「濱田玄達像」も所蔵されています。戦時中、供出される銅像の代替として複製された可能性が指摘されています。
◾️ まとめ
この記事は、東京帝国大学の産科・婦人科学の発展に大きく貢献した濱田玄達の功績を称える銅像の除幕式を報じたものです。
注目されるのは、単なる除幕式の記事ではなく、ベルツら外国人教師から濱田ら日本人医学者へと専門医学教育が引き継がれていった歴史が、式典の中で語られていることです。
また、470人余りの知人・門下生らが資金を出し合い、長沼守敬に2基の像を制作させたことからも、濱田が当時の医学界で高く評価されていたことがうかがえます。
この銅像は、明治期に西洋医学を導入する段階から、日本人医学者自身が専門医学を教育・発展させる段階へ移ったことを象徴する記念物としても興味深いものです。


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