1908年03月09日 兵器独立の計画を進む

1908年

(1907(明治40)年3月9日、『東京日日新聞』)
わが陸軍における兵器製造事業は、近年めざましい進歩を遂げ、東京・大阪の両砲兵工廠では、すでに兵器のほとんどすべてを製造できるまでになっている。
 しかし、特殊な材料の中には、なお外国から購入しなければならないものがある。現在も、イギリスのアームストロング社、ドイツのクルップ社、フランスのクルーゾー社などに注文しているものがあるため、昨年冬、東京・大阪の両砲兵工廠から、これら兵器の仕様や検査を担当するとともに、前記各工場の状況を視察するため、イギリスへは柏村少佐と井上大尉を、ドイツへは岡本、北川両大尉を派遣した。
 戦時において兵器を外国に頼らず独力で供給できる体制を整えることは、きわめて重要なことである。そのため陸軍では、この機会に、先の戦役当時における兵器の状況を改めて検討するとともに、東京・大阪の両砲兵工廠を拡張し、兵器の完全な自給・独立を実現しようとしている。
 現在、そのための調査が盛んに進められており、前記の派遣武官が帰国した後には、確実に兵器の独立を実現する計画であるという。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/222

写真・図引用:https://www.ndl.go.jp/en/landmarks/column/osaka_army_arsenal

◾️「兵器独立」とは何か

この記事でいう「兵器独立」は、単に銃や大砲を国内工場で組み立てられるようにすることではありません。兵器本体だけでなく、特殊鋼・精密部品・光学機器などを含め、外国からの供給が途絶えても軍需生産を継続できる体制をつくることを意味しています。

陸軍は明治期を通じて、この「兵器独立」を重要な技術政策として進めました。防衛省防衛研究所関係の研究でも、当時の兵器独立は「兵器製品の独立」と「兵器素材の独立」の双方から成り、素材面での外国依存が大きな課題だったとされています。

◾️日露戦争が明らかにした国産化の限界

記事中の「戦役当時」とは、時期からみて1904~1905(明治37~38)年の日露戦争を指すと考えられます。

日本では東京砲兵工廠が小銃・弾薬など、大阪砲兵工廠が大砲・砲弾などを主に担当していました。東京・大阪の両工廠は1879(明治12)年に正式に「砲兵工廠」となり、陸軍の主要な兵器生産拠点となっていました。

ところが日露戦争のような大規模戦争では、平時とは比較にならない量の砲弾・火薬・兵器が必要となりました。国内製造能力だけでは十分ではなく、外国製兵器や外国製材料への依存が残っていたことが、大きな問題として意識されました。

◾️アームストロング、クルップ、クルーゾー

記事に登場する三社はいずれも、当時の世界を代表する重工業・兵器メーカーです。

イギリスのアームストロング社は大砲や艦艇で知られ、日本も幕末以来同社の兵器を導入していました。ドイツのクルップ社は鋼鉄製大砲で世界的な地位を占め、フランスの**クルーゾー(シュナイダー)**も火砲・重工業の巨大企業でした。

日本陸軍は単に製品を購入するだけでなく、技術者・軍人を欧州の工場へ派遣し、製造法・検査方法・工作機械などを調査していました。

実際、東京砲兵工廠の岡本春三砲兵大尉は1906(明治39)年10月にドイツへ出張し、ツァイス、ゲルツなどの工場を視察した記録があります。この記事の「岡本大尉」の派遣時期とよく一致します。

◾️東京・大阪砲兵工廠の拡張

大阪砲兵工廠は1870(明治3)年に大阪城内で発足しました。日清・日露両戦争を通じて敷地・設備を急速に拡張し、日露戦争後には大阪城東側の広大な区域を占める巨大工場へ発展していきます。国立国会図書館も、日清戦争・日露戦争が大阪砲兵工廠の拡張を大きく促したと説明しています。

この記事はまさに、日露戦争で浮き彫りになった海外依存を、戦後の工廠拡張と技術導入によって解消しようとする段階を伝えたものといえます。

◾️ まとめ

この記事の重要な点は、日露戦争後の日本陸軍が「国内で兵器を製造できる」という段階から、さらに一歩進み、原材料や特殊部品まで含めて海外に依存しない軍需産業を構築しようとしていたことです。

東京・大阪砲兵工廠では兵器の大部分を国内生産できるようになっていましたが、特殊材料などは依然としてアームストロング、クルップ、クルーゾーといった欧州企業に依存していました。その弱点を解消するため、軍人・技術者を欧州へ派遣して製造・検査技術を調査し、帰国後の工廠拡張につなげようとしていました。

したがってこの記事は、日露戦争後の日本で進められた軍需工業の国産化・重工業化の過程を非常に端的に示す記事といえます。

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