1905年09月08日 公憤=電車の焼き討ち

軍事・騒乱

火のついた電車を押して内務大臣邸に迫る

引用:新聞集成明治編年史 第十二卷 P.493

(1905年9月8日、東京朝日新聞)
一昨(おととい)6日の午後9時を少し過ぎたころのことである。
日比谷公園正門のそばに停車していた市電(路面電車)に、一人の壮健な男が突然飛び乗った。彼はすぐに石油を車内にまき散らし、火をつけた。すると車両はたちまち炎に包まれた。
そこへ四方から集まってきた群衆の一団が、その火のついた電車を押していき、内務大臣官邸の前で倒そうとした。さらに別の群衆も一台、二台と次々に電車に火をつけて押し進め、官邸の正門前に迫り、大声をあげた。
これに対して護衛の兵士たちは正門側に駆けつけ、群衆を押し返そうとしたが、民衆はひるまず、炎の中で凄まじい行動を見せた。そしてついには、有楽門から桜田門にかけて停まっていた電車十数両を一斉に焼き討ちしたため、火炎は天を焦がさんばかりに燃え上がり、その光景はまるで「焦熱地獄」を目の前に見るようであった。
(中略)
この騒ぎの際、護衛兵が1、2発の空砲を放って群衆の混乱を制止した。しかしその銃声によって、日比谷広場の群衆は老若男女入り乱れて潮のように崩れ去り、一時は非常に悲惨な光景となった。

9月5日、日比谷公園で開かれた「国民大会」での抗議が警察の弾圧によって暴動化し、交番・新聞社・官邸などが襲撃されました。

群衆はついに路面電車を次々と焼き討ちし、火の車を内務大臣官邸へ押し寄せた のです。
電車は当時の近代都市インフラの象徴であり、それを焼き払って「火の車」として官邸に突進させる行為は、政府への強烈な怒りの象徴的パフォーマンスでした。
事態はもはや「デモ」ではなく、都市暴動・破壊行為の様相を呈しました。

この事件は、明治政府にとって「文明開化の首都・東京」が一夜で「無政府状態」に陥る危機を露わにしました。
電車の焼き討ちは、民衆の怒りが単なる政治抗議を超え、都市機能そのものを破壊し尽くそうとするほど激烈だったことを示しています。

警察は抑えきれず、最終的に 近衛師団の軍隊が出動し、流血を伴う鎮圧となりました。

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