(11月29日、東京朝日新聞)(27日、ロイター電報)
セバストポリで発生した反乱は、事態がいよいよ深刻さを極めている。軍隊はほとんどすべて職務を放棄して反乱軍に加担し、反乱に参加していないのは、わずかに一個連隊にすぎない。ただし、これまでのところ、目立った暴行や破壊行為はまだ発生していない。
反乱鎮圧のための政府発表(公報)がいっさい伝えられないことから、海軍の水兵たちまでもが反乱に加わったという噂が真実であることを裏づけるものと見られている。
今回の暴動は、綿密な準備と慎重な計画のもとに実行されたものである。
この記事が報じているのは、1905年(明治38年)ロシア帝国で起きた黒海艦隊の反乱(セバストポリの叛乱) に関するニュースです。この反乱は、同年のロシア第一次革命(1905年革命) の一環として起こった事件のひとつです。
背景①:日露戦争の敗北とロシア国内の混乱
1904~1905年の日露戦争で、ロシア帝国は日本に敗北しました。戦費は国家財政を圧迫し、物価の高騰と貧困が広がり、労働者・農民・兵士の不満が爆発寸前になっていました。1905年1月(ロシア暦)には「血の日曜日事件」が起こり、これを契機に全国でストライキや暴動、軍の反乱が頻発します。
その一環として有名なのが、同年6月の黒海艦隊「ポチョムキン号の反乱」であり、この記事で言及されているセバストポリの叛乱はその延長線上にあります。
背景②:セバストポリ反乱の内容
セバストポリは黒海艦隊の主要基地で、ロシア南部の戦略拠点です。1905年11月、同地で水兵・兵士・労働者が蜂起し、兵営と艦船を掌握しました。彼らは民主的改革や専制政治の廃止を要求しましたが、政府軍による鎮圧が行われ、多くの犠牲者を出して鎮静化しました。
背景③:日本から見たこの事件
日本では、日露戦争終結直後にロシアでこのような内乱が起きたことを、「専制ロシアの崩壊」「勝利後の国内混乱」として注目していました。当時の日本の新聞(東京朝日など)は、ロシア国内の不安定化を克明に報じ、「皇帝の権力は動揺している」「社会主義勢力が台頭している」といった論調で、東アジア情勢の変化を分析していました。


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