1905年12月01日 旅順開城の軍使 山岡中佐、失明す

1905年

引用:新聞集成明治編年史 第十二卷 P.533

(12月1日・報知新聞)
 かつて旅順攻囲戦の際に、名誉ある我が軍の使者として活躍し、いまなお多くの人々の記憶に新しい陸軍歩兵中佐・**山岡熊治(やまおか くまじ)**氏は、戦傷を負ってから陸軍予備病院で治療を受けていたが、去る17日に退院し、現在は静岡(駿河)にある仮住まいで療養中である。
 記者は昨日、失明された中佐を慰問するために訪問し、その折に近況を直接うかがうことができた。案内された部屋は秋の日差しがのどかに差し込む南向きの小座敷で、山岡氏はややふっくらした体つきのまま布団の上にゆっくりと身を起こし、にこやかな笑顔で記者を迎えた。

 そしてこう語った。
 「世の中には、目が見えているばかりに過ちを犯す者も多い。目が見えないほうが、むしろ自由が利くこともありますよ。」そう言って一席の講談を語るように快活な土佐弁で話を続け、いろいろと興味深い話を聞かせてくれた。やがて話題は最近の軍隊の凱旋と、それを熱心に迎える国民の喜びへと及び、さらに現在の関心事である「療兵院(りょうへいいん)」(=負傷兵療養施設)の問題に触れた。

 山岡氏は次のように語った。
 「療兵院を設けることについては、まず社会全体が、傷病兵に対する慈善心や同情心を呼び起こすことが第一です。いまの日本人で、この犠牲に涙しない者はいないでしょう。しかし、その後の問題――つまり実際に施設を整え、内容を充実させること――となると、これは大変な事業で、しかも永続的な設備が必要です。ですから、私的なものや基盤の弱いものではいけません。どうか忠勇なる多くの負傷兵たちのために、しっかりした立派な療兵院が作られるよう願っています。」

 このように語る氏の言葉は尽きることがなかったが、昨日からやや体調がすぐれないと聞いたため、記者は長居を遠慮して辞去した。
 なお、山岡中佐は気力旺盛で、健康状態もほとんど衰えは見えない。近日中に静岡の鎌倉へ赴き、十分な静養を取る予定である。

1. 山岡熊治中佐とは

 山岡熊治(やまおか くまじ、1865–?)は、日露戦争における旅順攻囲戦(1904〜1905)で、「開城交渉の使者(軍使)」として知られた日本陸軍の将校です。戦闘中に重傷を負い、両目を失明したと伝えられています。旅順は、ロシアの要塞都市で、戦争の帰趨を決めた最重要の激戦地でした。
 1905年1月(明治37年12月)に乃木希典大将率いる第三軍がついに旅順を陥落させ、日本国内では「勝利の象徴」として英雄視されました。山岡はその「開城(降伏)交渉」に赴いた軍使として名を上げ、当時の新聞・雑誌で「壮烈なる軍使」「武士の鑑」として全国的に有名になりました。

2. 「旅順開城の軍使」とは何か

 1905年1月2日、ロシア側の将軍ステッセルは降伏を決断。日本側は開城交渉のため軍使を派遣しました。その代表の一人が山岡中佐であり、白旗を掲げて敵陣へ赴き、降伏の手続きを取りました。しかしこの任務の前後に山岡は負傷し、戦後は失明の障害を抱えた英雄として知られたのです。

3. 記事に出る「療兵院」とは?

「療兵院」とは、戦傷者や障害を負った元兵士のための療養・社会復帰施設です。当時の日本では、国家的な傷痍軍人福祉制度がまだ整っておらず、戦争で負傷した兵士たちは多くが貧困や失業に苦しんでいました。そのため、山岡のような著名な傷痍軍人が社会に訴え、国民の「慈善心」「支援の必要性」を呼びかけたことには大きな意味がありました。この発言は、後に設立される傷痍軍人会(昭和期の福祉制度)の先駆的思想といえます。

4. 社会的意義

 この記事は単なる美談ではなく、「戦争の英雄が障害を負いながらも、社会福祉の必要を訴える」という点で、明治後期の「戦後社会問題」を象徴する記事です。日露戦争は勝利したものの、約11万人が戦死・負傷し、日本社会に「戦後の傷」が残されました。
 この山岡中佐の発言は、「勝利の陰にある人々の痛み」を静かに浮き彫りにしたものといえます。

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