(明治38年12月8日付 東京朝日新聞)
我が満洲軍の総司令官・大山巌元帥、総参謀長の児玉源太郎大将、そして総司令部の全員は、戦場において偉大な功績を挙げ、天下に名を轟かせた。
このたび、昨日(12月7日)午前10時38分、ついに帝都・東京に凱旋した。思えば、我が満洲軍総司令部が国家の運命を担い、上下の信頼を一身に集めて出征したのは昨年(1904年)7月6日のことであった。それから一年半あまりの長きにわたり、風雨にさらされながらも、戦うたびに勝利を重ね、強敵ロシア軍を北方に追い払い、重大な使命を果たした。そして今、天皇の思し召しを受け、凱旋の命を賜って帰国したのである。
大山総司令官は本来、最後の兵までも帰還するのを見届けてから帰国しようと考えていたが、ついに天皇の召命を辞することができず、11月25日、奉天(現・瀋陽)の陣営を離れ、凱旋の途についた。途中で旅順の攻城戦の跡地を訪れ、戦没者を弔い、11月30日に大連を出発、そして昨日(12月7日)無事に東京に帰還したという次第である。
(以下、略)
1. 大山巌と満洲軍
大山巌(おおやま・いわお、1842–1916)は、薩摩出身の陸軍軍人で、西南戦争・日清戦争を経て陸軍元帥となった人物です。日露戦争では、「満洲軍総司令官」として全陸軍を統括し、児玉源太郎を参謀長に迎えて、戦略的な指揮を執りました。
満洲軍とは、日露戦争における日本陸軍の主力部隊であり、奉天会戦(1905年3月)の勝利をもってロシア陸軍を満洲北部へ追い払いました。その後、戦争は終結に向かい、9月5日にポーツマス条約が締結されました。
2. 凱旋の意義
1905年12月のこの凱旋は、単なる帰国ではなく、「日本の戦勝を象徴する国家的セレモニー」でした。当時、ポーツマス講和条約の内容(賠償金なしなど)に国内では不満も高まり、「日比谷焼打事件」などの暴動も起きていました。
そのため、政府は戦勝の英雄たちを盛大に迎えることで、国民の不満を鎮め、国家的誇りを再喚起する意図がありました。
3. 児玉源太郎の同行
記事にある児玉大将(児玉源太郎)は、大山の参謀長として実質的に作戦を指揮した人物です。児玉は後に「日露戦争の頭脳」と称されましたが、凱旋からわずか半年後の1906年7月に病死します。この時の凱旋は、彼にとっても最後の晴れ舞台でした。
4. 奉天・旅順の弔問
記事中にある「旅順攻城戦の跡を弔う」は、1904年末から1905年初頭にかけての旅順要塞攻略戦で、多くの日本兵が犠牲になったことを意味します。凱旋途中にその地を訪れ、戦没者を慰霊したのは、司令官としての責務と考えられました。


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