ロシア皇帝、屈服。独裁政治の終わり(10月31日 ワシントン発)
国内の反乱に直面したロシア皇帝は、新たに詔勅を発布した。その内容は、ロシア国民に対し
• 身体の自由
• 言論の自由
• 「ヘビアス・コーパス(habeas corpus)の権利」
(※記者注:これはイギリスのチャールズ2世の時代に制定された有名な法律で、この権利によって英国人は正当な裁判官の裁きを受けることなく拘禁されないと定められた)
• 代議士選挙権
• さらに国会(ドゥーマ)において法律案に同意・参加する権利
を与える、というものである。これはまさに独裁政治の終わりを意味する。
1. 1905年ロシア革命
• この記事は 1905年ロシア革命 の最中の出来事を報じています。
• 日露戦争での敗北(特に日本との講和=ポーツマス条約による屈辱的条件)により、ロシア国内では労働者のストライキ、農民反乱、軍隊の反乱(黒海艦隊ポチョムキン号事件など)が各地で勃発。皇帝ニコライ2世の専制体制は揺らいでいました。
2. 十月勅令(十月詔書)
• 1905年10月30日(旧暦10月17日)、皇帝ニコライ2世は「十月勅令(十月宣言)」を公布しました。
• 内容はこの記事の通り、言論・集会・信仰の自由、ドゥーマ(国会)の設置、選挙権の付与 を約束するもの。
• これによりロシアは一応「立憲君主制」に移行したとされます。
3. 日本の視点
• 日本の新聞はこれを「ロシア独裁体制の終焉」と強調し、「専制国家ロシアがついに自由主義を認めざるを得なくなった」と報じています。
• 背景には、日本が日露戦争で勝利し、ロシア帝国を揺るがす原因の一つを作ったという自負も込められています。
4. 実際の影響
• 十月勅令によって設立された国会(ドゥーマ)は形式的なもので、実際には皇帝の権限が依然として強く、自由は制限され続けました。
• それでもこの勅令は、ロシア帝政の絶対主義が大きく後退した象徴的事件でした。


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