(12月2日付 東京朝日新聞)(11月30日、京城発)
このところ、自分の部下を使って「新しい日韓協約」に反対する運動を行っていた元参政(政府の高官)閔泳煥(ミン・ヨンファン)は、数日前から深い憂うつの病にかかり、精神状態に異常をきたしていたが、今朝ついに小刀で自らの喉を切り、見事に自殺を遂げた。彼は名門・閔氏の出身で、年齢はおよそ40歳前後である。
また、閔泳煥の北堂(母)も服薬して自殺したという説もあるが、これは確かではない。
閔泳煥の経歴(同電報より)
自殺した閔泳煥は、1896年(明治29年)3月、当時朝鮮国王(高宗)がロシア公使館に避難していた時期に、宮内府特進官・従一品として国王の命を受け、特命全権公使としてロシアに派遣された。ロシア皇帝(ニコライ2世)の即位式に参列し、帰国後はますます親露派として知られるようになった。しかし近年は態度を一変し、親日派(または現実主義派)の人々と親しく交わり、政府の要職に就くなど、それなりの勢力をふるっていた。今年(1905年)4月ごろにも一時、議政府参政(高官)の地位にあったことがあり、現在は侍従武官長の地位にあった。
1. 「日韓新協約」とは
この記事の「新協約」とは、1905年11月17日に締結された「第二次日韓協約(乙巳条約)」を指します。
この条約によって、
• 大韓帝国の外交権はすべて日本が掌握、
• 京城(ソウル)に「統監府」が設置され、
• 初代統監として伊藤博文が着任、
という体制が成立しました。
実質的に、朝鮮が日本の保護国になるという条約であり、朝鮮の主権は大きく奪われました。
2. 閔泳煥(ミン・ヨンファン)とは誰か
閔泳煥(1861頃–1905)は、高宗皇帝に仕えた朝鮮王朝の高官であり、名門・閔氏(王妃・閔妃の一族)の出身。彼は外交官・政治家として才能を発揮し、初期には親露派の外交官として知られました。
しかし1905年の「第二次日韓協約」締結に際しては、
• 朝鮮の独立を守るべく最後まで反対、
• 政府高官の中で数少ない強硬な反対派でした。
条約が日本の圧力で強引に結ばれると、「国を売る政府に仕えるより、死をもって抗議する」として、自邸で短刀により喉を切って自害しました。
3. 「精神異常」「憂鬱症」について
記事中では「憂鬱症に罹り精神に異状を生じた」と書かれていますが、これは朝鮮独立派の殉死を“狂気”として描く日本側報道の典型です。当時の日本の新聞は、保護国化政策を正当化するために、
• 「反対者は感情的・非理性的」
• 「新体制に反対するのは愚か」
といった論調を取る傾向がありました。
つまり、この「憂鬱症」という表現は、政治的自殺を“精神の病”と見せかけるプロパガンダ的な意図を持っていたと考えられます。
4. 閔泳煥の殉死の影響
閔泳煥の自殺は、当時の朝鮮社会に大きな衝撃を与えました。
• 同じく高官の趙琬九(チョ・ワング)も後に自害し、
• 「乙巳五賊(乙巳条約を結んだ5人の親日官僚)」を激しく非難する世論が沸騰、
• 各地で義兵運動(反日独立武装蜂起)が勃発するきっかけとなりました。
したがって、閔泳煥はのちに「殉国の志士」として朝鮮民族運動の象徴的存在となります。


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