1908年03月07日 醤油の野田町全焼

1908年

(1908(明治41)年3月7日、『東京日日新聞』)
千葉県東葛飾郡野田町では、別項の電報にもあるように、一昨夜12時ごろ、字清水から火災が発生した。折からの強風によって火の勢いはたちまち猛烈となり、飛び火も激しく、見る見るうちに燃え広がった。醤油製造会社、人車鉄道会社、野田商誘銀行、登記所出張所をはじめ、民家400戸、倉庫数十棟を焼き尽くし、町のほとんどが焼け野原となった。昨日未明4時ごろ、もはや燃え移る家屋がなくなったため、ようやく鎮火した。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/221

写真・図引用:https://www.kikkoman.com/en/culture/soysaucemuseum/history/img/04/bg.jpg?utm_source=chatgpt.com

◾️1908年3月5日に発生した「野田町大火」

この記事は、1908(明治41)年3月5日に現在の千葉県野田市中心部で発生した大火を伝えた速報記事です。野田市の歴史資料では、1871(明治4)年と1908(明治41)年に「町の中心部をほぼ焼き尽くす大火」があったとされています。千葉県がまとめた県史年表では、1908年の野田町大火について「全町の3分の1が焼失」と記されています。

◾️記事の「400戸」と後世資料の「850戸」

この記事では「人家四百戸、倉庫数十棟」とありますが、後にまとめられた資料には、1908年3月5日の野田大火について「焼失戸数850戸、損害額500万円」とする数字もあります。

これは矛盾というより、この記事が発災直後の電報による速報だったため、被害規模がまだ十分把握されていなかったと考えるのが自然です。当日の新聞報道では400戸程度と伝えられ、その後の調査で被害戸数が増えた可能性があります。

◾️醤油産業の町・野田

当時の野田は、すでに関東を代表する醤油醸造地でした。1887(明治20)年には野田醤油醸造組合が結成され、醤油の製造だけでなく、金融・交通・試験研究など町の近代化にも醸造家たちが深く関与していました。

ただし、現在のキッコーマンにつながる野田醤油株式会社の設立は1917(大正6)年です。したがって、この記事にある「醤油製造会社」を、そのまま後の野田醤油株式会社と同一視することはできません。1908年当時は複数の醤油醸造家・事業体が活動していた時代です。

実際、野田醤油株式会社の後年の社史年表にも、1908年の大火で「茂木七左衛門・茂木勇右衛門工場」が被災したことが記録されています。

◾️人車鉄道と野田商誘銀行も被災

記事に出てくる「人車鉄道会社」は、醤油蔵と江戸川の河岸を結ぶために設けられた野田人車鉄道です。人がトロッコを押して貨物を運ぶ鉄道で、1900(明治33)年に開業しました。後に輸送力不足から、1911(明治44)年には野田―柏間の県営軽便鉄道へと発展していきます。

同じく記事に登場する野田商誘銀行も1900年に設立された銀行で、醤油醸造家の茂木・高梨一族が中心となって設立した、野田の産業を支える金融機関でした。

◾️ まとめ

この記事は、1908(明治41)年3月5日に起きた野田町大火を、発生直後に伝えた短い速報です。

強風のため火災は急速に市街地へ広がり、住宅だけでなく、醤油関連施設、人車鉄道、銀行、登記所など、当時の野田の産業・行政基盤まで被災しました。

特に注目すべきなのは、新聞が「もはや延焼すべき家屋が尽きたため鎮火した」と伝えている点です。消防活動によって抑え込んだというより、燃える建物そのものがなくなるほど焼け広がった状況を端的に示しています。

なお、速報記事では「400戸」とされていますが、後世の資料では焼失850戸、あるいは町の約3分の1焼失とされており、被害の全容は速報段階よりかなり大きかったことが分かります。近畿大学学術情報リポジトリ

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