1906年01月01日 丙午は本当に厄年なのか 井上円了

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.1

(1906年1月1日、東京朝日新聞)
 昔から、人々は「丙午の年(ひのえうまのとし)」を不吉な年だと言い、その年には大火事や洪水などの災害が多いと信じてきた。もちろん、これはもともと俗説(迷信)であって、真面目に論じるに値する話ではない。しかし、今でも世の中にはそれを信じて心配している人がいるので、少し説明してその誤りを解いておこうと思う。

 迷信の起こり
 この「丙午は厄年」という説は、中国に由来し、「五行思想」を唱える人々の間から出たものである。江戸時代の読本作家・滝沢馬琴の『兎園小説』にも、中国の書物を引用して、陰陽家の説として「丙午や丁未は厄年である」と書かれている。この考えのもとになっているのは「陰陽五行説」の組み合わせである。もともと「十干(じっかん)」と「十二支(じゅうにし)」の起こりについては、古代中国の伝説によれば、黄帝が堯に命じて暦を定めるため「甲子(きのえね)」を作ったというが、それは史実として信用できない。そもそも『論語』や『孟子』などの正統な書物には、五行や干支に関する話はまったく出てこない。秦・漢の時代になってから「五行説」が盛んになり、干支を使って吉凶を占うようになったのである。十干は天の「気(エネルギー)」を表し、十二支は地上の「形(物質)」を表す。どちらも五行(木・火・土・金・水)に基づいている。
 五行が天にあるときは、次のような「五気」として現れる。
  • 寒は水の気
  • 暑は火の気
  • 燥は金の気
  • 湿は土の気
  • 風は木の気
 この五つの気に陰と陽を分けて十にしたものが「十干」である。そしてこの気が地に下って、木・火・土・金・水の形となったものが「十二支」である。十二支に動物の名前(ねずみ、うし、とら…)をあてたのは、ただの便宜上であって、本来は意味がない。干支という言葉も、「幹(みき)から枝(えだ)を生ずる」のように、十干(幹)と十二支(枝)の組み合わせから名づけられたものである。

 十干・十二支と五行の関係(表)
 五行 干 支
 木 甲・乙 寅・卯
 火 丙・丁 巳・午
 土 戊・己 丑・未・辰・戌
 金 庚・辛 申・酉
 水 壬・癸 子・亥

 さて、干支の中で特に「丙午(ひのえうま)」について考えると、丙と丁はいずれも「火」に属するが、丙は陽の火、丁は陰の火である。巳と午も火に属するが、巳は柔らかな火、午は剛(かた)い火とされる。つまり、丙午は「火の性質のうち、陽で剛なもの」が重なる年であり、火の気がきわめて盛んになると考えられた。そのため、「火災や災難が多い」とする俗説が生まれたのである。(以下略)

丙午(ひのえうま)とは

  • 十干十二支で60年に一度めぐってくる年。
  • 「丙(ひのえ)」=陽の火
  • 「午(うま)」=火を象徴する支
  → 火と火が重なる「火気が最も強い年」とされる。
 そのため、古くから「火事が多い」「気が強い」「女の気性が激しい」などといわれ、特に 「丙午生まれの女性は夫を焼き殺す」 という迷信が広く信じられました。これにより、江戸時代や明治時代には丙午の年に出生数が激減するという現象が実際に起きています(直近では1966年=昭和41年も)。

井上円了とは

  • 1858年生まれの哲学者・東洋大学創設者。
  • 幽霊・迷信・妖怪などを科学的に説明し、「妖怪博士」と呼ばれた人物。
  • 明治時代の合理主義・啓蒙思想を代表する知識人の一人。
 この文章もその一環であり、迷信(丙午は災いの年)を五行思想の歴史的・哲学的な文脈から説明し、「これは単なる古代中国の理屈にすぎない」と理性的に批判しています。

歴史的背景

  • 明治39年(1906年)はちょうど 丙午の年。
  • 日本全国で「女の子を産むのを避ける」「結婚を延期する」などの迷信が再び社会問題になっていた。
  • それに対して円了は、新聞紙上で迷信打破の啓蒙を行ったのです。

コメント