(1906年3月5日・東京朝日新聞)
この法案は、昨日、政府から衆議院へ提出された。その提出理由は次のとおりである。
「地方自治体について、これまでの経験に照らし、また将来の動向を考えると、地方自治の単位は **府県と市町村の二階層のみで十分であり、その中間にある郡という自治体を存続させる必要は認められないため」
法案の内容は以下の通りである。
第一条
郡制はこれを廃止する。
附則
1. 本法の施行期日は、勅令(天皇の名による命令)により定める。
2. 現行法の規定のうち、郡参事会の権限に属し、特別な規定が必要なもの、その他郡制廃止に伴い必要となる事項は、勅令により定める。
3. 従来、郡および郡組合が保有する財産、施設、事業、権利と義務の処分については、関係府県の参事会の意見を求めた上で、内務大臣が決定する。
⚫︎郡制とは
郡制は 明治地方制度改革(明治21年=1888年施行) によって設けられた 地方自治制度の中間行政組織 で、近世以来の郡の枠組みを引き継いだものでした。
構造としては以下の 三層制 でした:
府県
↓
郡(郡長・郡参事会)
↓
市町村
郡は、現在の広域行政機関・地方事務組合に近い役割を持っていました。
⚫︎廃止の理由
政府は、行政の簡素化と中央集権の明確化を目的とし、郡を介した行政は冗長で非効率であるという立場をとりました。
特に背景となった要因:
| 要因 | 内容 |
| 行政効率化 | 日露戦争後の財政再建・官制整理の流れ |
| 中央集権強化 | 明治国家の集権体制確立政策 |
| 自治レベル再評価 | 自治能力の中心を「府県・市町村」に限定 |
| 歴史的制度の整理 | 旧来の封建制度的区画の処理 |
⚫︎廃止案はすぐ実現したか?
→ すぐには実現しなかった
この時点では法案提出のみであり、議会での審議は紛糾しました。その後 1912年(明治45年)に郡制は停止状態となり、最終的な廃止は1950年(昭和25年)、戦後の地方自治法制定後です。つまりこの1906年の法案は 近代地方自治の方向性を大きく転換する初期提案 であったと評価できます。
⚫︎歴史的意義
• 日本の自治制度が 市町村—都道府県の二階層制へ収斂する最初の政策提案
• 郡の機能は 市町村事務組合・広域連合等へ継承
• 戦後の 地方自治制度(現行制度) の原型形成につながる


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