1906年04月03日 二葉亭四迷、東京朝日に入社 実業に進出するのか?

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.71

(1906年4月3日 中外商業新報)
 小説家であり実業家、あるいはその両方を兼ねている人物というのは、ときどきあるもので、特に珍しいことではない。しかし、文壇で名高い二葉亭四迷(本名・長谷川辰之助)ほどの人物であれば、少し書き立てるだけの価値はあるだろう。
 このたび、二葉亭氏が参謀本部のロシア語通訳の職を辞して、東京朝日新聞(東西の朝日新聞社)に入社したことで、「これから文壇が活気づくのではないか」などと早合点して騒ぎ立てる者たちもいたようだ。
 しかし実際のところ、氏は小説や文芸活動では悠々自適にやっていけるとは見ておらず、やはり実業の方面へ進んで、何か新しい仕事に取り組もうとしているという。また、むしろそのほうが氏にとって、新たな傑作を生む近道になるかもしれない。

 この記事には、明治後期の文壇事情、新聞社と文学者の関係、二葉亭四迷の人生の転機が凝縮されています。

● 二葉亭四迷とは?

  ・近代日本語の文体改革を進めた重要な作家
  ・『浮雲』(1887〜)で口語体小説の道を開いた
  ・ロシア文学の翻訳家としても活躍
  ・本名は長谷川辰之助
 文学史では最重要級の人物です。

● 当時の職:参謀本部のロシア語通訳

 日露戦争(1904〜1905)により“ロシア語人材”は非常に貴重で、四迷も参謀本部(軍の中枢)で翻訳官として働いていました。しかし戦争が終結し、役目が軽くなると同時に、役所勤めに飽きて退職します。

● なぜ朝日新聞に入社?

 明治から大正にかけて、大新聞は多くの文学者を抱えていました。
  ・夏目漱石(朝日新聞)
  ・森鴎外(陸軍→文学)
  ・徳田秋声(読売新聞)
  ・内田魯庵(万朝報)
 「新聞に連載小説を書く → 文壇の名声を高める」という流れが存在したため、新聞社は文学者にとって“実業と文学の両立の場”だったのです。四迷もその一人とみなされました。

● 記事の主旨:四迷は文学では食えないと思っている?

 記事の核心部分はここです。小説や文芸ではゆっくりした事も出来ずと見て取りやはり実業方面に向け何か着手する所あり
 つまり、四迷は“小説家だけでは生活できない”と判断し、新聞社という『実業』の世界へ進んだのだという解釈です。これは明治期の多くの文学者に共通する悩みでした。

● 「実業に進むことが傑作の近道」という皮肉

 記事は最後をこう結びます:
  むしろそのほうが、氏に傑作を生む近道になるかもしれない。
 これは、
  ・新しい環境で才能が刺激されるかもしれない
  ・経済的安定が創作を支えるかもしれない
という好意的な解釈が含まれていますが、同時に「文学だけでは食えない現状」を皮肉っているとも読めます。

● 実際の四迷はどうだったか?

 二葉亭四迷はその後、
  ・朝日新聞記者
  ・対外文化事業(ロシア関係の事務)
  ・小説断念と再挑戦
などを経験しつつ、文学活動からしばし離れ、1910年、外務省の仕事で赴いた旅先(ウラジオストク)で病没します。

■まとめ

 この記事は「二葉亭四迷が軍の通訳を辞め、朝日新聞という“実業”の世界へ入った」というニュースを、
  ・文壇の騒ぎ
  ・当人の生活観
  ・明治文壇の貧しさ
を交えて報じたものです。

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