1906年04月15日 警視庁、全般的に大幅人事異動へ 市内の全警察署長が辞職するという説も流れる

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.78

(1906年4月15日・東京朝日新聞)
●主事・部長の辞職
 警視庁官房主事・松井茂、第一部長・西久保弘道、第二部長・黒金泰義の3名は、一昨日そろって辞表を提出した。西久保氏は、おそらく滋賀県の事務官(第一部長)に任命される見通しである。
●4名の警察署長が辞職
 赤坂署長・勝見貞靖、麹町署長・向田幸蔵、府中署長・塙柔、本所署長・吉永助一の4名が、一昨日、いずれも「諭旨」、つまり上からの勧告により辞表を提出した。
●2名の署長は朝鮮へ転任
 下谷署長・小泉、八王子署長・壱岐の2名は、韓国(当時の大韓帝国)に転任する予定である。
●多数の警部も辞任
 これらの辞職のほかに、警部20名以上も同じく諭旨により辞表を提出した。いずれも騒擾(そうじょう)事件の責任、または能力不足によるものである。
●主事・部長の後任人事
 官房主事には神奈川県警務部長・井上孝哉、第一部長には滋賀県警務部長・伊澤多喜男、第二部長には新潟県警務部長・岡田文次が、それぞれ転任することが内定している。
●府県の警務長も入れ替え
 神奈川県警務長の後任には長崎県警務長・湯浅倉平が、新潟県警務長の後任には石川県警務長・茂泉敬孝が転任、さらに湯浅の後任には愛媛県警務長・太田政弘が転任することが内定し、そのほかにも数名の異動がある予定だ。
●郡部三署(青梅・小松川・府中)の署長
 これら三署の署長には、警部が就任することになる予定。
●巡視を新設
 改正警察官制が実施されれば、相当数の警部が整理される予定だが、本庁に「巡視」2名を新設し、管内を巡回させて警部・巡査の勤務を監督させるという。
●改正官制の発表時期
 一昨日の閣議で警視庁改革が決定され、天皇の裁可を経たうえで、来週月曜日の官報で公布される運びとなった。
●「総辞職」「ストライキ」はデマ
 東京府下の各警察署長が総辞職し、巡査のストライキが起きる――という噂が流れているが、まったく事実無根である。改革は極めて静かに進められている。

■ 明治末期の治安悪化と騒擾事件の続発

 明治30年代後半、東京では
  ・困民運動
  ・労働争議
  ・日露戦争後の失業・物価高
などが重なり、 暴動・騒擾事件が頻発 していました。
 警視庁はこれに十分対応できず、「無能」「不手際」と新聞から批判を浴びていました。そのため、政府が
「警視庁を一度リセットして立て直す」という方針に動いたのです。

■ 1905–06年、日本は“戦後不安”の時代

 日露戦争の勝利の後、国民生活は苦しくなり、戦争の成果がほとんどないことから不満が爆発しました。代表例が 日比谷焼打ち事件(1905年) です。この時、警視庁は鎮圧に失敗し、警察への不信感が高まりました。
 この記事に出てくる「騒擾事件の責任」とは主にこれを指します。

■ 1906年に「新しい警察官制(警官制度改革)」が実施

 政府はこの時期、
  ・警察の近代化
  ・権限の明確化
  ・人事制度の刷新
を目指して制度改革を行っていました。
 この記事は、その制度改革に合わせて警視庁幹部を大幅に入れ替える局面を報じています。

■ 朝鮮への転任(植民地警察行政との関係)

 記事の中で、下谷署長・八王子署長が韓国へ転任すると書かれています。当時は「韓国統監府」設置の直前(1906年2月設置)で、日本は朝鮮半島の警察制度を整備しつつあった時期 です。日本国内の警察官の一部が朝鮮へ転任したのは、植民地統治の準備・人員確保のためでした。

コメント