1905年12月19日 伊藤侯を統監府に押し込めて — 武断派内閣、ひとまず安心

1905年

引用:新聞集成明治編年史 第十二卷 P.545

(12月19日・満州朝日新聞)
むしろ哀れに思うべきことである。

 伊藤侯(伊藤博文)が朝鮮統監に就任することが決まったのは、その地位や境遇を考えれば本人にとって不本意だったからにほかならない。だが、山縣(系)に属する武断(軍事主導)的な現内閣(政府)は、文治派(文官・穏健派)の首領を遠く朝鮮に追いやることができたことを、自らの勝利として誇っているに違いない。
 伊藤侯がその就任を承諾した際、桂首相以下の宰相たちは、天皇や皇族に対するのと同じではないにせよ、ひどく丁重な礼をもって彼に感謝したという。これで彼らの機微(腹の内)を窺い知ることができる。
 確かに、彼らが伊藤侯を国内から遠ざけたことをひとつの勝利とするのは分かる。しかし、伊藤侯を国外へ遠ざけたからといって、彼らの地位が少しでも安定するわけではない。国中に満ちる宿怨や鬱憤は、伊藤侯がいるかいないかにかかわらず、現内閣を根本から打ち壊さなければ晴れないだろう。彼らが伊藤侯を排したことで得意になっているのは、むしろ無智(愚か)だと言うべきである。

記事が扱う情勢(誰が誰をどう追いやったのか)

 「伊藤侯」とは伊藤博文(侯爵)で、明治期を代表する元老・文治派の指導者です。彼は内政・外交で大きな影響力を持つ「文治派(民政・穏健路線)」の代表的存在でした。 
 「山縣系にして武断的なる現内閣」とは、主に山縣有朋の流れを汲む軍事寄りの勢力(軍人・強硬派)を指します。記事は、この勢力が伊藤を国内政治の中心から遠ざけて、朝鮮統監という地位に就かせたことを「勝利」として悦に入っている、と批判しています。

「統監府(統監)に就任する」意味

 1905年(乙巳=ウルサ)条約により、日本は韓国(大韓帝国)を事実上の保護国とし、統監(Resident-General)を置くことになりました。統監府は朝鮮における日本の最高実務権限を具有する機関で、1906年に設置され、伊藤博文が最初の統監に就任しています(条約は1905年11月に締結、統監府は翌年設置)。 

記事の論旨(筆者の立場)

 筆者は、伊藤を朝鮮に「祭り込む(押し込める)」ことで、国内に残る軍事派・強硬派が安心していると批判しています。つまり「伊藤を国外に追いやれば、政争の火種が消える」という安易な計算を嘲っているわけです。
 筆者はさらに、伊藤の在・不在にかかわらず、内閣(山縣系)の体質が変わらなければ国の根本的問題は解決しない、と警告しています。要するに「人を追い払うだけで事態は収まらない」と論じています。

当時の政治的文脈(なぜこの人事が問題視されたか)

 日露戦争(1904–1905)後、日本は朝鮮半島での影響力を強め、1905年の「第二次日韓協約(乙巳条約)」により朝鮮の外交主権が奪われました。統監府創設はその延長で、朝鮮統監は非常に強い権限を持つポストであり、国内政治における人事であると同時に、対外・植民地政策の重要ポストでもありました。 
 伊藤博文は長年「文治派」の代表として政局調整に関与してきたため、彼を朝鮮に送ることは国内の「文治的」抑制力を弱め、軍事寄り・拡張的な勢力に国内政治の実権を与えることになる、という懸念がありました。記事はそれを問題視しています。

結果と歴史的帰結

 伊藤は実際に統監に就き、1906年以降在任しますが、朝鮮統治は強権的・段階的な支配強化へと向かい、最終的に1910年の韓国併合につながっていきます。伊藤本人も1909年に満洲のハルビンで暗殺されています(韓国の独立運動家による)。この一連の流れは、記事が懸念している「人事で国内問題を先送りするだけでは済まない」という示唆と符合します。 

コメント