(明治38年〔1905年〕11月14日、東京朝日新聞)
現在、東京府下にある各新聞・通信社(ただし「国民新聞」を除く)は、政府が発した戒厳令および新聞発行停止令を、いまだに解除しないことによって、十分な言論の自由が得られないことを非常に遺憾に思っている。そこで、13日午後1時から、各社の代表が衆議院記者倶楽部に集まり協議を行った。
その結果、いまこそ各社が連合して政府当局に対し、戒厳令と新聞停止令の解除を正式に要請することを決めた。さらに、政府だけでなく、元老(伊藤博文・山縣有朋など)や各政党にも直接訴えること、それでも目的が達せられない場合には、次の議会(帝国議会)の開会を待って、議会に対して運動を起こすことを決議した。
また、この目的を達成するため、東京の新聞だけでなく、全国の地方新聞にも呼びかけ(移牒)を送り、賛同を求めること、さらに、外国語新聞社(英字新聞など)とも連携して協議を行うことが決まった。
このため、運動の中心となる常務委員(代表委員)として、帝国通信社、自由通信社のほか、東京日日新聞、東京朝日新聞、萬朝報、時事新報、報知新聞の計7社のうち5社を選出することとし、選挙の結果、東京日日・東京朝日・萬朝報・時事・報知の五社が常務委員に決まった。
これら各社の代表者は、14日午後1時に再び会合して、今後の具体的行動を協議する予定である。
◾ 1. 歴史的背景:日比谷焼打事件と戒厳令
この出来事の直接の背景には、1905年(明治38年)9月の「日比谷焼打事件」があります。
🔹経緯
同年9月、日露戦争の講和(ポーツマス条約)が発表されると、日本国民の多くは「賠償金がない」「樺太が半分しか戻らない」ことに激怒しました。東京・日比谷公園で行われた反講和国民大会が暴徒化し、新聞社・交番・政府機関・鉄道などが焼き討ちされました。政府はこれを「国家非常事態」とみなし、東京市内に戒厳令を発令(9月6日)し、同時に多くの新聞に対して発行停止命令を出しました。
◾ 2. 新聞の沈黙と政府への反発
🔹「新聞発行停止令」とは
政府は、新聞が国民の不満を煽動して暴動の原因になったと判断し、戒厳令の下で「新聞紙条例」に基づき、各社の発行を相次いで停止。東京の主要紙(朝日・報知・萬朝報・時事・読売など)は一時的に発行停止処分を受けました。発行再開後も厳しい検閲が続き、政府批判はほとんどできない状態に置かれました。
🔹新聞社側の反応
事件から2か月後(11月中旬)になっても戒厳令が解除されず、言論の自由が回復しないことに新聞各社が不満を募らせていました。そこで各社は連携し、「新聞通信社同盟」という形で団結し、政府の言論弾圧に共同で抗議する決議を行ったのです。
◾3. 特徴と意義
(1)「国民新聞」の不参加
記事冒頭に「ただし国民新聞を除く」とあるように、政府寄りで知られた国民新聞(黒岩涙香主宰)はこの抗議同盟に加わりませんでした。他の新聞(朝日・萬朝報・報知など)は民衆側、つまり自由主義的立場に立っていました。
つまり、新聞界が「政府系」と「自由主義系」に分裂していたことがわかります。
(2)新聞界の団結行動
これは日本の新聞史上初期の「新聞社連合による政府抗議行動」のひとつでした。それまで競争関係にあった各紙が、政府による検閲・弾圧に対して一致して抗議の姿勢を見せたことは画期的でした。
(3)報道の自由の萌芽
この「新聞通信社同盟」の動きは、明治後期の日本で「報道の自由を守る意識」が具体化し始めた象徴的事件といえます。以後、新聞社は検閲・言論統制に対して徐々に抵抗の姿勢を取るようになります。


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