1905年12月20日 上海で清国人が蜂起 英・独の水兵が上陸

1905年

引用:新聞集成明治編年史 第十二卷 P.544

(12月20日・東京朝日新聞)
上海暴動の報
 会審公堂(外国と清国の共同裁判所)の事件に関して、上海では人々の感情が激しく高ぶり、17日夜には高札(ビラ)を掲げ、檄文(呼びかけの文書)を発する者が現れた。18日になると、中国人の商店や市場はすべて閉鎖され、労働者たちは一斉にストライキを行った。暴徒たちは警察署や街中にいた外国人を攻撃し、事態はきわめて不穏な様子となった。
 これまでのところ、インド人の巡査1名が殺され、中国人1名が死亡し、負傷した外国人は数えきれないほどにのぼっている。日本人の中にも負傷者が出た。また、「水道が止められ、電話線も切断される」という風説が流れている。

発生時期と場所

 この記事は1905年12月の上海暴動(会審公堂事件)を報じたものです。当時の中国はまだ清朝の支配下にありましたが、
  • 日露戦争で日本が勝利し、
  • 欧米列強の支配に対する反感が高まり、
  • 民族主義・排外運動が全国に広がっていた時期でした。
特に上海は、列強諸国が治外法権を持つ「租界(そがい)」を設けており、清国民から見ると「外国人に支配された屈辱の都市」となっていました。

「会審門の件」とは

 記事中の「會審門(会審公堂)」とは、上海の外国人と中国人の共同裁判所(Mixed Court)を指します。この裁判所は外国人が支配する租界内に設けられており、清国官吏と外国人判事が共同で中国人の犯罪を裁く制度でした。しかし実際には、外国側が実権を握って清国官吏を侮辱するような運営が多く、たびたび中国人の怒りを買っていました。

事件の発端

 1905年12月、上海の会審公堂で中国人犯人の処遇をめぐり、清国官吏と外国人警察官(特にイギリス人)の間で衝突が起こりました。この事件をきっかけに、
  • 清国の世論が激昂し、
  • 「外国人が中国の裁判権を奪うとは何事か!」という抗議が広まり、
  • 上海市民・労働者・商人が一斉にストライキ・閉店を行ったのです。
これが「会審公堂事件」または「上海暴動」と呼ばれる出来事です。

暴動の展開

  ・17日夜:檄文(呼びかけのビラ)が貼られ、外国排斥の呼びかけが行われる。
  ・18日:市民と労働者がゼネストに入り、商店も閉店。
  ・暴徒化した群衆が警察署や外国人を襲撃。
  ・インド人巡査(英領インド出身で租界警察に雇われていた者)が殺害される。
  ・外国人や日本人も襲われ、街は混乱。
  ・水道・電話などのインフラも妨害され、都市機能が麻痺する。
  ・英・独(イギリスとドイツ)の軍艦から水兵が上陸し、治安維持のため出動。

背景にある大きな潮流

 この事件は単なる治安騒動ではなく、清末の民族運動と列強支配への抵抗という流れの中で起こっています。背景には次の要素がありました。
  • 日露戦争で日本が勝利 → 「アジア人が白人列強に勝てる」という衝撃。
  • 中国国内で「排満(清朝打倒)」と「排外(外国人追放)」運動が並行して高まる。
  • 孫文ら革命派の活動も活発化。
  • 外国の不平等条約(治外法権)への反感が爆発寸前。
つまりこの暴動は、1905年の民族的覚醒の象徴的事件の一つだったのです。

結果と影響

 暴動は英・独・仏の軍隊によって鎮圧され、多数の中国人が逮捕・処刑されました。しかしこの事件以降、中国では「租界制度を撤廃せよ」「裁判権を取り戻せ」という世論が強まり、清朝の支配にも大きな打撃を与えました。
 やがてこれが、1911年の辛亥革命(しんがいかくめい)、すなわち清朝の崩壊と中華民国成立へとつながっていきます。

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