1908年03月14日 東京の大丸発展

1908年

(1908(明治41)年3月14日、報知新聞)
 東京市内の呉服・太物商の老舗として名高い大丸では、将来、市内の重要な場所に高層建築を建てるまでの間、現在の繁華な場所にある日本橋区通旅籠町の店舗について、店内を全面的に改築することになった。
 一階はすべて商品を陳列して販売する方式とし、道路に面した東側と北側には、ガラス張りの商品陳列棚を設ける。二階は見切り品の売場と休憩室にして、和洋折衷の非常にハイカラな設備とし、一般の客が非常に買い物をしやすいよう工夫を凝らしている。
 そして、来る15日から25日まで、仮営業場の落成披露を兼ねて大売り出しを行うという。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/222

写真・図引用:https://assets.st-note.com/img/1697974955305-lc6cKeapCV.jpg?width=800

◾️この記事は、大丸が「江戸時代型の呉服店」から近代的な百貨店へ転換しようとした時期の記録

この記事が掲載された1908(明治41)年は、大丸の歴史の中でも大きな転換点でした。

大丸は1717(享保2)年に京都伏見で創業し、1743(寛保3)年には江戸・日本橋大伝馬町に進出しました。江戸店は越後屋や白木屋と並ぶ代表的な大呉服店に成長します。大丸松坂屋の公式沿革でも、1743年の江戸店開業、1907(明治40)年の株式合資会社大丸呉服店設立が確認できます。

そして1908年には、従来の商法を大きく改め、東京店を近代化する改革が進められました。

この記事はまさに、その改装が完成しつつある時点で書かれた記事です。

◾️最大の変化は「座売り」から「陳列式」への転換

記事の中で最も重要なのが、「階下は総て陳列式」という部分です。

江戸以来の呉服店では、客が店内に座り、店員が奥の棚から反物を持ってきて一つずつ見せる「座売り」が一般的でした。

これに対して「陳列式」は、商品をあらかじめ売場に並べ、客が自分で商品を見比べながら歩いて買い物をする方式です。

これは現代の百貨店や量販店では当然ですが、明治末期には新しい販売方法でした。

同時期には松坂屋も1907(明治40)年に上野店で座売りから陳列式立売りへ転換し、ショーウインドーを設置しています。大丸もこれに続くように、近代的な百貨店方式への改革を進めていたことがわかります。

◾️「玻璃の陳列棚」はショーウインドー

原文の「道路に添ひて東北面を玻璃の陳列棚となして」の「玻璃(はり)」はガラスです。

つまり、道路に面する東側・北側にガラス張りの商品陳列窓、すなわちショーウインドーを設けたということです。

従来の呉服店では、暖簾をくぐって中へ入らなければ商品を見ることができませんでした。

ところがショーウインドーを設ければ、通行人が店の外から商品を見ることができます。

これは単なる建築上の変更ではなく、「店に入ってから商品を見せてもらう」商売から、「街を歩いている人を商品で店内へ誘う」商売への転換を意味します。

1908年の改装後の東京本店を写した写真も残っており、夜には店全体が明るく照らされ、道路に面して大きなガラス面が設けられていたことを確認できます。

◾️「ハイカラ式」という表現

新聞は改装後の店内を、「和洋折衷の頗るハイカラ式」と表現しています。

「ハイカラ」は英語の high collar に由来し、明治期には「西洋風で新しい」「しゃれている」「近代的」といった意味で広く使われました。

したがって、これは単に洋風の内装にしたというだけでなく、当時の東京の人々から見ても非常に現代的で、流行の先端を行く店になったというニュアンスを含んでいます。

二階には「見切品」の売場だけでなく「休憩室」も設けられています。

これも近代百貨店の重要な特徴です。単に必要な商品を買って帰る場所ではなく、客が長時間滞在して買い物そのものを楽しめる空間へと変化し始めています。

◾️実際の改装後の写真が残っている

この新聞記事の非常に面白いところは、記事で予告された改装後の姿を写真で確認できることです。

1908(明治41)年4月1日発行の雑誌『ハガキ文学』には、「改築後の大丸呉服店」「東京本店之夜景」と題された写真が掲載されています。

そこには、それまでの巨大な和風呉服店とは大きく異なる、明るく照明された店舗が写っています。改装は建て替えではなく、従来の建物を利用した大規模な内部改装でした。

この記事が3月14日付で「15日より25日、大売出し」と伝えていますから、まさに新しい大丸東京本店が一般客に披露されようとしていた前日の記事ということになります。

◾️大丸は江戸時代には日本橋の代表的な大店だった

東京の大丸は、もともと地方から新しく進出してきた店ではありません。

1743(寛保3)年から江戸日本橋に店を構え、江戸屈指の大呉服店として約160年の歴史を持っていました。公式の大丸東京店史でも、江戸・大伝馬町の呉服大店が現在の東京店の原点とされています。

歌川広重の「名所江戸百景」にも大丸が描かれています。

巨大な暖簾には丸の中に「大」の字が描かれ、店頭を大勢の人が行き交っています。当時すでに大丸そのものが、日本橋のランドマークだったことがわかります。

◾️ところが明治末には立地条件が不利になっていた

大丸がこの時期に急いで改革を進めた背景には、東京の商業中心地そのものの変化がありました。

江戸時代には大伝馬町周辺は商業の中心でした。

しかし明治後期になると、銀座・日本橋通り・上野方面など、路面電車の通る大通り沿いへ人の流れが移っていきます。

大丸の店はそうした主要交通路から外れていました。

中央区観光協会が紹介する資料でも、明治中頃までは大丸が日本橋を代表する繁盛店だった一方、交通路の変化に伴って客足が次第に遠のいたことが指摘されています。

この記事冒頭にある、「市内枢要の地に高層建築に至る迄」という部分は、この状況を踏まえると非常に興味深い記述です。

大丸は、将来的には東京市内のより重要な場所へ近代的な高層店舗を設ける構想を持ち、それまでの暫定策として既存店舗を近代化しようとしていたと読むことができます。

◾️しかし、この改革はわずか2年後に挫折する

この記事を後の歴史から読むと、さらに興味深くなります。

1908年、大丸は東京店を本格的に近代化しました。

ところが経営改革には多額の費用が必要で、従業員との対立なども重なりました。『大丸二百五拾年史』では、この時期を「各店改造」「内部革新」、続いて「東京本店及び名古屋支店閉鎖」という章立てで記録しています。

結局、1910(明治43)年に大丸は東京店を閉鎖します。

大丸の公式沿革でも、1910年に江戸店と名古屋店を閉鎖したことが確認されています。

つまり、この新聞記事が報じた大改装は、大丸が東京で生き残るために行った最後の大規模な近代化策の一つだったことになります。

◾️「百貨店」が生まれつつあった時代

1908年前後は、日本の小売業そのものが大きく変化していた時代です。

呉服店が、「客が座って反物を見せてもらう店」から、「明るい売場を自由に歩き、陳列商品を選び、ショーウインドーを眺め、休憩までできる店」へ変わり始めました。

今回の記事には、陳列販売、ショーウインドー、休憩室、洋風設備、セールという、後の百貨店を構成する要素がほぼすべて登場しています。

短い記事ですが、これは日本で「デパート」という商業形態が成立しつつあった瞬間を記録した記事といえます。

◾️ まとめ

1908(明治41)年3月14日のこの記事は、日本橋の老舗呉服店・大丸が東京店を全面的に改装し、近代的な販売方式へ転換しようとしていたことを報じています。

最大のポイントは、江戸時代以来の「座売り」をやめ、商品を売場に並べる陳列式販売を採用したことです。

さらに道路側にはガラス張りの陳列棚、現在でいうショーウインドーを設置し、上階には休憩室を設けました。新聞が「和洋折衷の頗るハイカラ式」と評したように、当時としては非常に先進的な店舗でした。

これは単なる店内改装ではありません。

江戸以来の呉服商が、近代的な百貨店へ変身しようとした改革でした。

一方で、この改革の背景には、大伝馬町周辺が東京の主要な人の流れから外れつつあったという問題もありました。記事には、将来「市内枢要の地」に高層建築を建てる構想まで記されています。

しかし、その計画は実現しませんでした。

改革からわずか2年後の1910(明治43)年、大丸は約167年間続いた東京の店舗を閉鎖します。東京へ本格的に戻ってくるのは、44年後の1954(昭和29)年、東京駅八重洲口に現在につながる大丸東京店を開業したときでした。

その意味でこの記事は、明治末期の百貨店成立史だけでなく、大丸が東京撤退直前に試みた大胆な近代化を伝える貴重な記事でもあります。

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