(1907年12月5日・報知新聞)
青木周蔵駐米大使は、2、3日前、日本政府から日本人移民問題について報告を求めるため帰国するよう命じられた。そのため、近いうちにアメリカを出発して帰国することになるだろう。そもそも青木大使が召還されることになった原因は、当時の日米外交における最大の問題の一つである日本人労働移民の問題にある。日本政府の当局者は、この問題についてアメリカ側と強硬な姿勢で交渉を続けていた。
ところが青木大使は、約2週間前、日本政府からの正式な指示を待たずに、独断でアメリカ政府に対して、日本政府は特別な法律を制定して日本人労働移民を厳しく禁止するつもりである、という趣旨の回答をした。そのためアメリカ政府は大いに喜び、「これによって日米両国の友好関係は、ますます緊密になるだろう」として、非常に歓迎する態度を示した。
しかし、これはもともと日本政府の意思ではなかった。そのため日本の外務当局者は大いに驚き、直ちに長文の電報を青木大使に送り、その経緯について詳しい説明を求めた。同時に、政府の指示を待たずに独断で交渉したことについても青木大使を責めた。
その後、双方の間で何度も電報のやり取りが行われた。しかし、非常に重大な問題であり、電報だけでは十分に事情を把握することができなかった。そこで外務省は、ついに青木大使に帰国を命じたという。
以前から青木大使は、政府に対して「自分は外交官として先輩である」というような態度を示し、時には外務当局の指示を待たずに独断で行動することがあった。今回の行動も、そのようなことが原因になったのではないかとみられている。そして青木大使が帰国した後には、大使を罷免される可能性もあると伝えられている。
写真・図引用:https://discovernikkei.org/en/journal/2013/1/8/women-in-wintersburg/?utm_source=chatgpt.com
⚫︎ 背景は「日本人移民問題」
この記事の中心にあるのは、1907年の日米関係を大きく揺さぶっていた日本人労働者のアメリカ移民問題です。
当時、アメリカ西海岸、とくにカリフォルニアでは日本人移民が増加していました。
これに対して、
- 日本人労働者との競争への反発
- 人種的な排斥意識
- 日本人移民を制限しようとする政治運動
が強まっていました。
1906年にはサンフランシスコ教育委員会が、日本人を含むアジア系児童を白人児童から分離する措置を決定し、日米間の大きな外交問題となりました。
⚫︎ 1907年末は「紳士協約」の直前
この記事が掲載されたのは1907年12月5日。これは非常に重要な時期です。
日米両国は、日本人移民をどのように制限するかについて交渉しており、最終的にはいわゆる「日米紳士協約(Gentlemen’s Agreement)」へと進んでいきます。
大まかにいうと、
日本側 → アメリカ本土への日本人労働者の新規移民を自主的に制限する
アメリカ側 → サンフランシスコの日本人児童隔離問題などについて改善を図る
という形で問題を収拾する方向に進みました。
アメリカ国務省の外交史料でも、1907~08年に日本政府が労働者への旅券発給を制限する措置を取ったことが確認できます。
⚫︎ この記事で特に重要なところ
記事の核心は、青木大使が、日本政府の正式な指示を待たずに、アメリカ側へ大きな譲歩を示したという点です。
記事の描く構図は次のようになります。
① 日本政府 「移民問題についてアメリカと交渉中」
② 青木駐米大使 「日本政府は法律を制定して日本人労働移民を厳しく禁止する」という趣旨をアメリカ側に伝える③ アメリカ政府 「それなら日米関係は改善する」と歓迎
④ 東京の外務省 「そんな方針を決めた覚えはない」
⑤ 青木大使に説明を要求
⑥ 電報でのやり取りでは解決せず
⑦ 青木大使を帰国させる
⚫︎ ただし、この記事をそのまま「青木の独断」と断定してはいけない
ここは歴史研究上、かなり重要です。
記事は青木について、「独断擅行」、「専断する事あり」とかなり厳しく批判しています。
しかし、これは報知新聞の報道・評価です。
実際には1907年末、日本政府自身が日本人労働移民の渡航制限について、アメリカ側と具体的な調整を進めていました。
したがって、「青木が勝手に移民禁止を決めた」という単純な話ではありません。
むしろ、「日本政府がどの程度まで移民を制限するのかを調整している最中に、青木がアメリカ側に先行してかなり踏み込んだ説明をしてしまった」という状況として理解するのが妥当です。
つまり、問題は外交上の権限と交渉方針の食い違いだったと考えられます。
5.青木周蔵とは?
青木周蔵(1844~1914)は、明治期を代表する外交官です。
ドイツ留学経験を持ち、ドイツ・イギリスなどで外交官として活動し、外務大臣も務めました。
1906年には駐米大使となり、まさにこの日米移民問題が最も緊迫していた時期の日本外交を担当していました。
⚫︎ 青木の帰国は「罷免」につながったのか?
記事は、「其の帰朝の上は或は罷免せらるるに至るならん」としています。
つまり、「帰国したら大使をクビになるかもしれない」という新聞側の観測です。
ここは記事の事実と予測を区別する必要があります。
実際、青木はこの後、駐米大使を離れることになりますが、単純に「今回の独断だけで即刻罷免された」と理解するのは適切ではありません。
1907~08年の日米移民交渉そのものが大きく変化しており、青木の外交官としてのキャリアも、この時期を境に大きな転換点を迎えました。
⚫︎ その後の日米関係
この事件の直後、日米交渉はさらに進展します。
1907~08年 日米紳士協約
日本政府がアメリカへの労働者の渡航を制限する一方、アメリカ側も日本人児童の学校隔離問題を解消する方向に進みました。
1908年 ルート=タカヒラ協定
日米両国の相互の領土的現状維持や、中国における門戸開放・機会均等などを確認します。
つまり、この1907年12月の記事は、日米関係が大きく再調整されているまさに途中の出来事なのです。
⚫︎ まとめ
この記事を一言でまとめると、
「日本人移民問題をめぐる日米交渉で、青木周蔵駐米大使が政府の正式な指示より先にアメリカ側へ踏み込んだ説明をしたため、東京の外務省との間に重大な意見の食い違いが生じ、帰国を命じられた」
という報道です。
特に重要なのは、1907年12月5日という日付です。
これは、
サンフランシスコ日本人学童問題
→日本人移民排斥問題
→青木駐米大使召還
→日米紳士協約
→日米関係の再調整
という一連の流れの中にあります。
したがって、この小さな新聞記事は、1907年末の日米外交の舞台裏を知るかなり興味深い史料です。

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