1905年09月15日 小村と小柳 講和成立 屈辱か成功か

社会・世相

引用:新聞集成明治編年史 第十二卷 P.495

(1905年9月15日、大阪朝日新聞)
日本の全権代表・小村寿太郎(外相)と、東京烏森の芸者・小柳(本名・杉浦きさ、26歳)との関係は、世間でよく知られた事実である。
小村はアメリカ出発前に小柳に夢中になり、使命を果たして帰国した後には、彼女を身請けして「手中の花」とするべく講和条約を結んだ、という噂がある。
ところが、その講和条約の内容を耳にすると、やはりロシアの代表ウィッテにいいように扱われ、弱腰の態度で翻弄され、聞くに堪えないほど屈辱的な条件に涙ながらに調印させられたという。
つまり、こういうことだ。

第一条
小村は小柳に対して「優越権」を得ること。ただし、はした金では身請けはできない。世間の人が驚くほどの大金を小村が彼女にむしり取られる形になること。
(以下略)

これは真面目な報道ではなく、風刺記事(ゴシップと政治批判を混ぜたもの)です。
日露戦争の講和(ポーツマス条約)により、日本は賠償金を得られず、国民の期待に反して不満が爆発(日比谷焼打事件など)し、その怒りの矛先が、講和条約に調印した全権代表・小村寿太郎に向けられました。
記事は「小村がロシアに翻弄されたのは、まるで芸者小柳にむしり取られるようなものだ」と、芸者との私生活を持ち出して痛烈に揶揄しています。

「小柳(杉浦きさ)」は実在の芸者で、小村寿太郎が贔屓にしていたと言われています。この関係は当時の新聞でもゴシップ的に取り上げられ、政治批判の格好の材料になりました。小村は国際政治の場で「国のために最善を尽くした」とも評価できますが、結果が不満足だったため、民衆から「ロシアに騙され、芸者に騙される男」と皮肉られました。

このように「政治批判+スキャンダル暴露+笑い」を組み合わせるのは、当時の新聞が国民の憤懣を煽る典型的な手法でした。

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