(1907〈明治40〉年8月16日『東京朝日新聞』)
昨日、日本とロシアの間で締結された日露協約が正式に発表された。協約の冒頭では、次のように述べられている。
日本国皇帝陛下の政府とロシア皇帝陛下の政府は、日露両国の間に回復された平和と友好・善隣関係をさらに確かなものとし、将来、両国の関係において誤解や対立の原因となるものを取り除くことを希望し、次の条項を締結する。
(中略)
この協約は、1907年7月30日(ロシア暦7月17日)に、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで調印された。
署名者は、
・本野一郎(日本公使)
・アレクサンドル・イズヴォリスキー(ロシア外務大臣)
である。
⚫︎ 日露戦争からわずか2年後の協約
この協約は、1905年に終結した日露戦争からわずか2年後に締結されました。
戦争では日本が勝利しましたが、日露両国とも莫大な人的・財政的損失を受けていました。
そのため両国は、新たな戦争を避け、東アジアでの勢力範囲を外交的に調整する道を選びました。
1907年の日露協約は、その転換を象徴する重要な外交文書です。
⚫︎ 協約の内容
記事では冒頭部分のみが掲載されていますが、1907年の日露協約では主に次の点が確認されました。
- 満州における両国の権益を相互に尊重すること
- 韓国における日本の優越的地位をロシアが事実上認めること
- 外モンゴルにおけるロシアの利益を日本が尊重すること
- 相互に現状維持を図ること
これは勢力圏を明確化することで、再び武力衝突が起こることを防ぐ狙いがありました。
⚫︎ 「協商外交」の時代へ
この時期、列強は二国間・多国間協定を相次いで結びました。
例えば、
- 1902年 日英同盟
- 1904年 英仏協商
- 1907年 英露協商
- 1907年 日仏協約
- 1907年 日露協約
などです。
これらは第一次世界大戦前の国際秩序を形成した「協商外交」の一環でした。
日本も列強外交の一員として積極的に関与するようになります。
⚫︎ 本野一郎とイズヴォリスキー
「本野一郎」
本野一郎は、駐ロシア公使として協約締結にあたりました。
後に外務大臣も務め、日本外交を代表する外交官の一人となります。
「アレクサンドル・イズヴォリスキー」
アレクサンドル・イズヴォリスキーは、日露協約や同年の英露協商を推進し、ロシア外交の立て直しを図りました。
⚫︎ 韓国への影響
1907年は、
- 高宗退位
- 第三次日韓協約
- 統監府の権限強化
が進んだ年でもあります。
日露協約でロシアが日本の韓国における優越的地位を認めたことにより、日本の韓国支配に対する国際的な障害はさらに小さくなりました。
この流れは1910年の日韓併合へとつながっていきます。
⚫︎ まとめ
この記事は、1907年の日露協約が正式に発表されたことを報じています。
協約の目的は、
- 日露戦争後の平和を維持すること
- 両国間の誤解を防ぐこと
- 満州・韓国などにおける勢力範囲を明確化すること
でした。
これは敵対していた日本とロシアが、わずか2年後には外交協力へ転じたことを示す象徴的な出来事であり、20世紀初頭の列強による「協商外交」の重要な一例です。また、日本の韓国支配が国際的に追認される過程を理解する上でも欠かせない外交文書といえます。


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