(1907年7月26日『中外商業新聞』)
韓国の情勢は、京城(現在のソウル)での暴動がやや鎮静化したように見える。しかし、全国八道の情勢は依然として緊迫しており、各地で事件が発生する可能性がある。そのため、現在韓国に駐屯している日本軍1個師団だけでは、日本人や外国人の生命・財産を十分に保護できない恐れがあるとして、7月23日に開かれた元老会議で、状況に応じて追加派兵を行うことが決定された。そして7月25日、第12師団から最も有力な歩兵部隊の一団に、特別に編成した部隊を加えて韓国へ増派することになった。
この部隊は同日から輸送を開始し、釜山へ向かい、さらに仁川方面へ進軍する見込みである。また、韓国各地で発生している騒乱についても、行軍の途中で鎮圧にあたることになるだろう。
⚫︎ 韓国皇帝退位と1907年の混乱
この記事が書かれたのは、韓国皇帝・高宗の退位(1907年7月)直後です。
高宗は前年のハーグ密使事件で日本の保護国化に抵抗しようとしましたが、日本政府はこれを問題視し、退位を要求しました。
退位後、韓国国内では
- 反日感情の高まり
- 親日派官僚への襲撃
- 地方での武装蜂起(義兵運動)
- 官吏や警察への攻撃
などが相次ぎました。
この記事の「八道の風雲なお急」という表現は、朝鮮半島全域で情勢が不安定化していたことを示しています。
⚫︎ 「元老会議」とは何か
ここでいう元老会議とは、明治政府の重鎮たちによる非公式な最高政策協議です。
当時の主要な元老には
- 伊藤博文
- 山縣有朋
- 松方正義
- 桂太郎
らがいました。
韓国問題は外務省だけでなく、軍部と元老が深く関与する国家的課題となっていたのです。
⚫︎ 第12師団の増派
第12師団は当時、九州方面を担当する部隊でした。
記事では「最も有力なる歩兵の一団」とあり、実戦能力の高い部隊が選抜されたことを強調しています。
増派の名目は「内外国人の生命財産保護」でしたが、実際には
- 義兵運動の鎮圧
- 韓国軍解散後の治安維持
- 統監府の権限強化
- 日本の支配体制確立
が重要な目的でした。
⚫︎ 義兵運動との関係
1907年7月には韓国軍解散が実施され、多くの元兵士が義兵(抗日武装勢力)に参加しました。
その結果、各地で
- 鉄道襲撃
- 郵便・通信施設の破壊
- 日本人居留民への攻撃
- 官庁襲撃
が発生し、日本軍は本格的な治安戦に巻き込まれていきます。
この記事は、その初期段階を報じたものといえます。
⚫︎ まとめ
- 1907年7月、高宗退位後の韓国では各地で騒乱が拡大していた。
- 日本政府は、駐屯中の1個師団では治安維持に不十分と判断した。
- 元老会議で臨機出兵(追加派兵)が決定された。
- 第12師団の歩兵部隊が韓国へ増派された。
- 名目は「外国人・日本人の保護」だったが、実際には義兵運動鎮圧と統監府支配の強化が主要目的だった。
- この増派は、後の韓国軍解散・義兵戦争・1910年の日韓併合へとつながる重要な転換点であった。


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