(1907年(明治40年)10月21日・東京朝日新聞)
「鞍馬」の進水式とだけ言えば、単に一隻の軍艦を海に進水させる行事にすぎないようにも思える。しかし、1万4,600トン余りの排水量を持つ、最新鋭の巨大軍艦が日本国内で建造されたという事実は、それだけでは済まされない意味を持っている。というのも、現在建造中または新たに建造された軍艦には、薩摩・安芸・筑波・生駒・伊吹・利根・最上・淀・伏見などがあり、さらに近い将来に建造が開始される予定の最大級の戦艦2隻、そして戦時計画に基づいて建造される30隻の駆逐艦などもある。これらの大小さまざまな軍艦を、外国に頼ることなく、日本人自身の手によって次々と建造できるようになったのである。
このことから考えると、日露戦争後、日本の海軍力が大きく飛躍するとともに、日本の造船技術が著しく進歩し、国全体が発展してきたことを、この「鞍馬」の進水式から読み取ることができる。したがって、鞍馬の進水を、単なる一隻の軍艦の進水として軽く見過ごしてはならない。日本国民は、この日、この進水式を記念し、大いに祝うべきである。そのためであろうか、皇后陛下も自ら式場にお出ましになって進水式に臨まれた。また、多くの皇族をはじめ、政府・政界・財界など各界の名士も式場に集まり、この盛大な式典を参観する栄誉にあずかった。まさに、一大祝典であり、まためったに見ることのできない壮観な光景であった。
(以下略)
写真・図引用:https://d23gjylftzdlen.cloudfront.net/db_photo/d2178/u18021781/9742010dig_o2.jpg
⚫︎ 「鞍馬」はどんな軍艦だったのか
記事の主役である鞍馬は、日本海軍の大型装甲巡洋艦として建造された軍艦です。
1905年、日露戦争の日本海海戦で日本海軍がロシア・バルチック艦隊を撃破した直後、日本ではさらに強力な海軍を建設する必要性が強く意識されるようになりました。
その流れの中で建造されたのが、
- 鞍馬
- 伊吹
などの大型艦です。
鞍馬は横須賀海軍工廠で建造され、1907年10月21日に進水しました。
つまりこの記事は、まさに鞍馬が巨大な船体を初めて海に浮かべる瞬間を報じています。
⚫︎ なぜ「1万4,600トン」がそんなに重要なのか
記事では、「一萬四千六百餘噸を有せる最新最鋭の巨艦」と、わざわざ排水量を強調しています。
これは当時の日本人にとって非常に大きな数字でした。
明治初期、日本には近代的な大型軍艦を建造する能力がありませんでした。
ところが約40年後には、1万4,000トン級の大型軍艦を国内で設計・建造するところまで到達した。
新聞は、この技術的飛躍そのものを「驚異的進歩」と評価しています。
⚫︎ 「外国から軍艦を買う日本」から「自分で軍艦を造る日本」へ
この記事を理解するうえで、ここが最も重要です。
明治初期の日本海軍は、軍艦の多くを外国から購入していました。
例えば、
- イギリス
- フランス
- ドイツ
などから軍艦を購入し、外国人技師の技術を導入していました。
しかし明治30年代になると、日本国内の造船能力が急速に向上します。
特に重要だったのが、横須賀海軍工廠と呉海軍工廠です。
さらに民間でも、三菱長崎造船所などが大型船建造能力を高めていきました。
その結果、1900年代には日本が自力で大型軍艦を建造できるようになります。
この記事の、「容易に我國の手によりて建造せられ」という表現は、まさにこの変化を誇っているのです。
⚫︎ 「薩摩・安芸・筑波・生駒・伊吹……」は何を意味するのか
新聞が多数の軍艦の名前を列挙しているのも重要です。
記事では、薩摩、安芸、筑波、生駒、伊吹、利根、最上、淀、伏見と並べています。
これは単に軍艦をたくさん紹介しているのではありません。
新聞が読者に、「鞍馬だけではない。日本は今や、大小さまざまな軍艦を次々と国内で建造している」と理解させようとしているのです。
当時の海軍拡張を象徴する艦艇群でした。
⚫︎ そして「戦艦2隻」と「駆逐艦30隻」
さらに記事は、「近き将來に於て建造に着手せられんとする最大二戦艦」と、「戦時計画に係る三十隻の駆逐艦」にも言及しています。
これは日露戦争後の日本が、戦時に備えて海軍をさらに拡張しようとしていたことを示しています。
日露戦争が終わったのは1905年ですが、日本政府・海軍にとっては、「次の戦争が起きたとき、日本は十分な海軍力を持っていなければならない」という発想が強く残っていました。
この時期、日本海軍は単に戦争に勝ったから縮小するのではなく、むしろ戦勝を契機として、さらに強大な海軍を建設する方向へ進んでいきます。
⚫︎ 実は「薩摩」は日本海軍にとって画期的だった
記事に登場する薩摩は特に重要です。
薩摩は日本が国内で建造した大型戦艦の代表例です。
薩摩型戦艦は、
- 薩摩
- 安芸
の2隻から構成されました。
そして、この「薩摩・安芸」の経験が、その後の日本戦艦建造につながっていきます。
特に重要なのは、日本が単に「外国の軍艦をコピーする」段階から、自国の要求に合わせて大型軍艦を設計・建造する段階へ移ったことです。
⚫︎ では「鞍馬」は戦艦なのか?
ここには少し注意が必要です。
記事の見出しは、「鞍馬進水式=大小戦艦悉く内地で建造」とありますが、鞍馬そのものは戦艦ではなく、装甲巡洋艦として建造された艦です。
ただし、当時の新聞記事では「戦艦」を広義に軍艦全体を指すような文脈で使う場合もあります。
また、鞍馬は1万4,000トンを超える巨大艦であり、当時の日本海軍の主力級大型艦だったため、一般読者には「戦艦に匹敵する巨大軍艦」という印象を与える存在でした。
⚫︎ なぜ皇后陛下まで進水式に出席したのか
この記事では非常に大きく、「皇后陛下には親しく此日の式場に臨御在まして」と報じています。
これは鞍馬の進水式が単なる海軍内部の行事ではなく、国家的な祝典として演出されたことを示しています。
軍艦の建造能力は、そのまま、国家の工業力 → 軍事力 → 国力と結びつけて考えられていました。
そのため、大型軍艦の進水は、「日本が近代国家として欧米列強に追いついた」ことを国民に示す象徴的なイベントになったのです。
⚫︎ 「日露戦争後の国運の発展」という表現
記事の中でも特に時代性が出ているのが、「戦後我國の海軍力に一大躍進を示す」という部分です。
ここでいう「戦後」は当然、日露戦争後です。
1905年の日本海海戦で日本がロシア艦隊を破ったことによって、「日本は欧米列強と対等に戦える」という自信が急速に広がりました。
そして1907年の新聞は、
日露戦争の勝利
→海軍力の増強
→造船技術の発展
→工業化の進展
→国力の増大
という一本のストーリーを描いています。
この記事は、その象徴として「鞍馬」を扱っているわけです。
⚫︎ しかし、この「造船大国化」には大きな問題もあった
現代の視点から見ると、この記事の「驚異的進歩」という評価には、少し距離を置いて読む必要があります。
大型軍艦を建造するためには、
- 製鉄
- 機械工業
- 造船
- 砲熕技術
- 装甲板製造
- 蒸気タービン
- 石炭供給
- 港湾設備
- 熟練労働者
など、多数の産業が必要になります。
つまり軍艦は、
日本の重工業化そのものを象徴する巨大な「総合工業製品」
でした。
その一方で、巨大戦艦を大量に建造するには莫大な国家予算が必要です。
日露戦争後の日本は戦勝国になったものの、戦争による巨額の国債・賠償問題・財政負担を抱えていました。
そのため、「海軍をもっと強くしたい」という軍事的要求と、「国家財政をどう維持するのか」という問題が、次第に激しく衝突していくことになります。
⚫︎ まとめ
この記事の本当のテーマは、鞍馬という一隻の軍艦ではありません。
記事が伝えようとしていること
① 日本が大型軍艦を国内で造れるようになった
② 横須賀・呉などの海軍工廠を中心に造船技術が急速に進歩した
③ 日露戦争後、日本海軍はさらに拡張されようとしていた
④ 薩摩・安芸・筑波・生駒・鞍馬など、国産大型艦が続々と登場した
⑤ 造船技術の進歩は、日本の工業化・国力増大の象徴とされた
⑥ そのため鞍馬の進水式は、皇后も出席する国家的祝典となった

コメント