1907年07月20日 韓國皇帝退位と決す 十九日払暁譲位の勅令に親署

1907年

(1907〈明治40〉年7月20日・東京朝日新聞、7月19日京城発)
韓国皇帝、退位を決定

 韓国皇帝(高宗)は本日未明、退位(譲位)の勅令に自ら署名した。詳細は後報する。

譲位の詔勅
 今朝、官報において譲位の詔勅が公布された。その内容は次のようなものである。
 私は祖先から受け継いだ国家を統治して四十余年になるが、多くの困難に直面し、政治は志どおりに進まなかった。人材登用も必ずしも適切ではなく、国内の混乱や災禍は日ごとに深刻となった。政策も時勢に適合しないことが多く、国家の危機はかつてないほど深刻である。私は深く憂慮してきたが、幸い皇太子は優れた資質と徳を備えている。今後の政治改革を託すにふさわしい人物であると考える。私自身は政務に疲れたため、国家の大事を皇太子に委ねることとする。
 退位は歴代にも先例があり、今回もそれにならう。今後は皇太子が国政を担うものとし、必要な儀式は宮内府と掌礼院に実施させる。この詔勅には各大臣が副署した。

「代理」の意味
 詔勅には「代理する」という表現が用いられているが、これは単なる摂政ではないという。文脈から見ても実質的な譲位であることは明らかである。退位後の皇帝は別の場所に移され、今後は政治に関与できないようにする方針であるという。
 なお、この譲位案は総理大臣・李完用が数日間寝食を忘れて熟慮した末に決断し、断固として皇帝に上奏した結果であると伝えられている。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/167

写真・図引用:https://en.wikipedia.org/wiki/Gojong_of_Korea?utm_source=chatgpt.com

◾️ 海牙密使事件が直接の引き金

この退位劇の直接的原因は、前年から続いていた「韓国保護国化」と、1907年の「海牙密使事件」にありました。

高宗は日本の承認を得ないまま、密かに特使を派遣して、オランダ・ハーグで開催された第二回万国平和会議へ参加させようとしました。

派遣されたのは、

  • 李儁
  • 李瑋鍾
  • 李相卨

らでした。

彼らは「日本による保護条約は無効であり、韓国の独立を守ってほしい」と各国に訴えました。

しかし各国はこれを取り上げず、逆に日本側は高宗が保護条約に反する外交活動を行ったと強く問題視しました。

◾️ 伊藤博文の判断

当時の韓国統監は伊藤博文でした。

伊藤は当初、

  • 韓国皇帝の存続
  • 緩やかな保護国統治

を望んでいました。

しかし海牙密使事件によって皇帝自身が統監政治に反抗していることが明白になったため、統治体制の維持が困難と判断します。

その結果、

高宗退位 → 皇太子即位 → 統監府権限強化

という方向へ進みました。

◾️ 李完用の役割

記事が強調しているのが李完用の存在です。

李完用は親日派として知られ、

  • 皇帝退位
  • 日韓新協約(第三次日韓協約)
  • 後の日韓併合

に深く関与しました。

現在の韓国ではしばしば「売国奴」の象徴として語られます。

一方で当時の彼自身は、日本との対立では国家が維持できないと考えていたとされます。

◾️ 皇太子即位

退位した高宗の後を継いだのは皇太子の純宗です。

しかし実際には、即位後の政治権限は極めて限定的であり、1907年7月の第三次日韓協約によって日本の統制はさらに強化されました。

この退位は、1910年の日韓併合へ向かう決定的な転換点と評価されています。

◾️ まとめ

この新聞記事は、単なる皇帝退位の記事ではなく、

  • 海牙密使事件の帰結
  • 高宗の政治的失脚
  • 統監府権限の強化
  • 李完用政権の成立
  • 日韓併合への加速

を伝える歴史的な速報記事です。

1905年の第二次日韓協約で外交権を失った韓国は、1907年の高宗退位によって皇帝権力も大きく制限され、さらに1910年の日韓併合へ進むことになります。

その意味で、1907年7月19日の高宗退位は大韓帝国崩壊への決定的な一歩だったと言えます。

コメント