(1907〈明治40〉年10月2日・国民新聞)
現在、回向院の境内で建設が進められている相撲常設館(後の国技館)の工事は順調に進み、まもなく敷地を平らにする工事に取りかかる予定である。この場所は、昔は一面が沼地で、人の住まない土地だったという。しかし、明暦年間(1657年)の大火では10万人以上が亡くなったと伝えられている。あまりにも多くの遺体が出たため、処理に困った幕府は、この沼地へ遺体を運び込み、名前はもちろん、男女の区別さえできないまま埋葬した。その結果、広い沼地が遺体で埋め尽くされたと伝えられている。さらに、安政2年(1855年)の江戸地震でも約2万5千人が犠牲となった。幕府はその遺体の処置にも苦慮し、前例にならって同じ沼地へ埋葬するよう命じた。そのため、この二つの大災害の犠牲者たちの遺骨が重なり合い、かつて葦が生い茂っていた沼地は、人骨が積み重なって固い地盤となったという。また、この時代に回向院が増上寺の末寺として建立されたのも、こうした犠牲者を弔うためであったと伝えられている。そのためであろうか、相撲常設館の建設工事では古い人骨が次々と掘り出され、積み重ねられている。現在では、大きな納骨堂を建てても収まりきらないほどであるという。
数年前、本堂前を整地した際には一片の骨も発見されなかったため、焼け残った古文書に記されていた「この地に大量の遺体が埋められた」という記録には疑いもあった。しかし今回の発掘によって、かつての沼地の位置が初めて明らかになり、古い記録が事実であったことが確認されたという。
なお、東京相撲協会では、この人骨の発見を機に、回向院の境内へ大きな無縁塚を建立し、長く亡くなった人々の霊を慰める予定である。
写真・図引用:https://ekoin.or.jp/history/
⚫︎ 相撲常設館とは現在の旧国技館
この記事の「相撲常設館」は、1909(明治42)年に完成した初代国技館を指します。
それ以前の大相撲は寺社の境内などに仮設小屋を建てて開催されていましたが、観客の増加に伴い、年間を通じて使用できる常設施設の建設が計画されました。
建設地に選ばれたのが、江戸時代から勧進相撲の開催地として知られた回向院でした。
⚫︎ 明暦の大火と回向院
回向院は、明暦3年(1657年)の明暦の大火で亡くなった多数の犠牲者を弔うため、徳川家綱の命により建立されました。
「振袖火事」とも呼ばれるこの火災では、推定で約10万人が死亡したと伝えられています。近年の研究では実際の犠牲者数は諸説ありますが、江戸史上最大級の災害であったことは確かです。
⚫︎3 安政江戸地震との関係
1855(安政2)年の安政江戸地震でも多数の犠牲者が発生し、回向院は再び遺体の埋葬・供養の場となりました。
記事は、これら二つの災害の犠牲者が同じ地域に埋葬されたと伝えています。
ただし、「沼地が人骨で地盤になった」という表現は、当時の新聞らしい誇張を含んでいる可能性があります。実際に多数の遺骨が出土したことは史実ですが、地盤全体が人骨のみで形成されたという意味ではなく、埋葬地の存在を強調した表現と考えられます。
⚫︎ 発掘で記録が裏付けられた
記事が注目しているのは、建設工事で多数の人骨が見つかったことにより、
- 江戸時代の古文書
- 回向院の伝承
の信頼性が裏付けられたという点です。
現在でも回向院には明暦の大火や安政江戸地震などの供養碑が残され、江戸の災害史を伝える重要な史跡となっています。
⚫︎ 無縁塚建立の計画
記事によれば、東京相撲協会は出土した遺骨を手厚く供養するため、無縁仏を祀る塚を築くことを計画していました。
これは当時の社会において、工事で出土した遺骨を単なる障害物として扱うのではなく、宗教的・社会的配慮のもとで供養しようとした姿勢を示しています。
⚫︎ まとめ
この記事は、回向院で建設中だった相撲常設館(後の初代国技館)の工事中に多数の人骨が発見されたことを報じています。
ポイントは次のとおりです。
- 建設地は明暦の大火や安政江戸地震の犠牲者が埋葬された場所と伝えられていた。
- 工事中に多数の遺骨が出土し、江戸時代の記録や伝承が裏付けられた。
- 回向院が災害犠牲者供養の寺院として建立された歴史にも触れている。
- 相撲協会は出土した遺骨を供養するため、無縁塚の建立を計画していた。
この記事は、近代的なスポーツ施設建設という明るい話題の一方で、その土地に刻まれた江戸の大災害の記憶を伝える歴史資料としても重要な価値を持っています。

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