(1907〈明治40〉年10月1日・東京朝日新聞)
東京市と東京商業会議所が主催したタフト歓迎会は、昨夜7時から帝国ホテルで盛大に開催された。出席者には、松方正義、井上馨の両元老をはじめ、林董、松岡康毅、齋藤実、阪谷芳郎の4人の大臣、さらに渋沢栄一、尾崎行雄をはじめ、宮中関係者、貴族院・衆議院議長、国内外の紳士・淑女など約150名が出席した。
会場にはあらかじめ立派な歓迎門が設けられ、日本庭園風にしつらえた長い廊下が続き、国旗や提灯、飾り玉などで華やかに装飾され、食堂も目を見張るほど美しく飾り付けられていた。午後7時半に宴会が始まり、宴も終わりに近づくと、渋沢栄一男爵の発声でアメリカ大統領万歳が唱和され、続いてタフト氏の発声で明治天皇陛下万歳が唱えられた。
食事が終わった後、渋沢男爵が挨拶に立ち、日本はマシュー・ペリーやタウンゼント・ハリスの厚意によって、アメリカから多くの恩恵を受けたことを述べた。さらに、明治5~6年頃の日米貿易額は約500万円、明治15~16年頃には約2,300万円、昨年(1906年)には約2億円へと飛躍的に増加したことを紹介した。
そして、今日、日本人がアメリカ人を自国民のように親しく感じているように、アメリカ人もまた日本人を自国民のように親しく思ってほしいと締めくくった。
この挨拶は、添田寿一が英語へ通訳した。続いて主賓のタフト氏が立ち上がり、朗々とした声で長い演説を行った。
(以下略)
※この記事は「(下略)」となっており、歓迎会の前半部分のみが掲載されています。なお、1907年当時のウィリアム・ハワード・タフトはまだアメリカ陸軍長官であり、大統領就任は1909年です。当時の新聞は、将来大統領となる有力政治家として「タフト大統領」と表現することがありましたが、厳密には「陸軍長官タフト」が正確です。
⚫︎ タフト来日の目的
この記事の「タフト」は、後に第27代アメリカ大統領となるウィリアム・ハワード・タフトです。
1907年当時の肩書はアメリカ陸軍長官であり、フィリピンや極東政策の視察旅行の途中で日本を訪問しました。
日露戦争(1904~1905年)が終結してまだ2年しか経っておらず、日本は新興列強として世界から注目を集めていました。
⚫︎ 「タフト大統領」は誤りでは?
新聞見出しには「米国大統領タフト」とありますが、これは現在の歴史的事実とは一致しません。
実際には
- 1907年:陸軍長官
- 1909年:大統領就任
です。
当時の新聞には、
- 将来の大統領候補
- 「President Taft」という後年の呼称
- 編集上の簡略表現
などにより、このような見出しが付けられる例があります。史料を利用する際には、当時の肩書と後年の経歴を区別して読む必要があります。
⚫︎ 渋沢栄一が歓迎の中心人物
歓迎演説を担当したのは、日本実業界を代表する人物である渋沢栄一でした。
渋沢は、
- 民間外交
- 国際経済交流
- 日米友好
を重視し、多くの外国要人を歓迎しています。
演説では、日米関係の始まりを
- ペリー
- ハリス
に求め、経済交流の発展を数字で示している点が特徴です。
⚫︎ 日米貿易の急成長
記事では
- 約500万円
- 約2,300万円
- 約2億円
という貿易額の推移が紹介されています。
これは開国以来、日本の輸出入が急速に拡大したことを示しています。
当時の主要輸出品は
- 生糸
- 茶
- 絹製品
などでした。
一方でアメリカからは
- 機械
- 綿花
- 工業製品
などが輸入されていました。
⚫︎ 日米関係の「黄金時代」
1907年は、
- 日英同盟
- 日露協約
- 日仏協商
など日本が列強との外交関係を安定させていた時期です。
一方でアメリカとは同年に「サンフランシスコ学童隔離問題」が発生しており、日本人移民への差別が外交問題化していました。
そのため、この歓迎会には政治的な友好関係を内外に示すという意味もありました。
しかし、その後の日米関係は
- 移民問題
- 海軍軍拡競争
- 中国問題
などをめぐって次第に緊張を深めていきます。
⚫︎ まとめ
この記事は、1907年に来日したアメリカ陸軍長官ウィリアム・ハワード・タフトを歓迎する晩餐会の様子を伝えたものです。
主なポイントは次のとおりです。
- 東京市と東京商業会議所が帝国ホテルで盛大な歓迎会を開催した。
- 日本政府・財界・皇室関係者など約150名が出席し、日米友好を祝った。
- 渋沢栄一はペリー・ハリス以来の日米交流と貿易発展を紹介し、相互理解の深化を呼びかけた。
- タフトも明治天皇への敬意を表し、演説を行った。
- この記事は、20世紀初頭の日米関係が友好的な雰囲気の中で展開していたことを伝える史料である一方、同時期には移民問題など将来の対立の芽も存在していた。

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