(1908年1月5日、東京日日)
ロシア政府は11月21日、日露間の漁業権交渉の経過を「黄書」によって公表した。ロシアがこのような外交交渉の経過を公表したのは、今回が初めてである。そして、この文書の中では、日露間の漁業権問題についての交渉経過も公表されており、日本帝国の要求が受け入れられなかったことを非難するような内容まで含まれている。
この黄書によれば、日本は交渉の当初、かなり大きな要求を行った。日本側は、ポーツマス条約にいう「漁業」という言葉を、海におけるあらゆる漁業を意味するものと解釈し、「漁業権」についても、漁場に関する全面的な権利を意味するものと解釈した。さらに黒龍江(アムール川)の河口・入江方面については、日本人の漁業上の権利をロシア人の権利よりも大きくするような要求を提出した。
このため、ロシア側の全権委員グバストフ氏は、この要求に全面的に反対した。そして、「この交渉を翌年まで延期するか、そうでなければ、ロシア皇帝の裁可を得ずに交渉を進めることはできない」という強い態度を示した。そのため日本政府は、当初の要求を撤回し、ロシア側の条件を受け入れることになった。
また、沿岸線の範囲についても、日本側は河川を沿岸線に含めようとした。しかし、ロシア側がこれを受け入れなければ交渉を打ち切ると強く主張したため、結局、日本側もロシアの提案を受け入れることになった。その代わり、ロシア側は日本に若干の特権を与えた。
しかしロシア政府は、それらの特権が日本側の威嚇によって与えられたものではなく、日露両国の親善関係を考慮して、ロシア側が多少の譲歩をしたにすぎないと明言している。つまり、ロシア政府はこの外交文書を公表することによって、今回の日露漁業交渉ではロシア外交が勝利したことを暗に示しているのである。
写真・図引用:https://fishnews.ru/rubric/krupnyim-planom/11017?utm_source=chatgpt.com
⚫︎ そもそも「漁業権」はポーツマス条約に由来する
この問題の出発点は、1905年の日露戦争終結時のポーツマス条約第11条です。
この条項によってロシアは、
- 日本海
- オホーツク海
- ベーリング海
に面するロシア領沿岸で、日本人に漁業権を与えるため、日本と協定を結ぶことを約束しました。
つまり日本は、戦争に勝った結果として、ロシア領沿岸での漁業権を獲得する道を開いたわけです。
しかし、ここで問題になったのが、「どこまでを日本人の漁業権とするのか」という点でした。
⚫︎ 日本側はかなり広い漁業権を求めた
日本にとって北洋漁業は非常に重要でした。
特に、
- カムチャツカ半島
- オホーツク海
- 沿海州
- 黒龍江(アムール川)周辺
は、サケ・マスなどの水産資源が豊富でした。
日本側はポーツマス条約第11条を根拠に、できるだけ広い漁業権を獲得しようとしました。
実際、1906年8月からサンクトペテルブルクで本格的な交渉が始まり、1907年7月28日にようやく「日露漁業協約」が調印されました。
⚫︎ 特に問題になったのが「河川・入江」
この記事を読む上で非常に重要なのが、「河川を沿岸線に加へんと試み」という部分です。
最終的な日露漁業協約第1条では、日本人に漁業権を認める区域について、「河川及び入江を除き」日本海・オホーツク海・ベーリング海に面するロシア沿岸、と定められました。
つまり、海岸の漁業権は認めるが、ロシアの河川・入江まで日本人の漁業権を広げるわけではないというロシア側の主張が基本的に採用されたのです。
ただし、入江については附属議定書で特定の場所が列挙され、例外的な扱いも設けられました。
⚫︎ この「黄書」とは何か
記事に出てくる「黄書」は、ロシア政府が外交文書や外交交渉の経過をまとめて公表する外交文書集です。
現代でいえば、「政府が公表した外交交渉記録」に近いものです。
したがって、この記事は単に「ロシアが交渉結果を発表した」というニュースではありません。
ロシア政府が、「今回の交渉では、日本が最初はかなり強い要求を出してきた。しかし、ロシアが拒否したため、日本は最終的に譲歩した」というロシア側に有利な外交史を公表した、と東京日日新聞は理解しています。
記事の最後の、「以て暗に露国外交の勝利を示せり」という表現が、その意味を端的に表しています。
⚫︎ しかし、実際に成立した協約を見ると面白い
ここが、この新聞記事を歴史資料として読む上で重要なところです。
ロシア側は「外交的勝利」を強調していますが、最終的に成立した1907年の日露漁業協約は、日本にとって非常に重要な漁業権益を認める内容でした。
協約第1条では、河川・入江を除くロシア沿岸で、オットセイ・ラッコ以外の魚類・水産物について、日本人が捕獲・採取・製造する権利を認めています。
さらに漁区については、競売によって日本人が漁業権を取得する仕組みが設けられました。
そして、この協約の有効期間は12年間とされました。
そのため、1907年以降、日本企業によるカムチャツカなどへの本格的な北洋漁業進出が始まります。
⚫︎ 「日露関係改善」の裏側
この記事が掲載された1907年という年は、日露関係にとって非常に重要な転換点です。
わずか2年前の1905年には、日本とロシアは日露戦争を戦っていました。ところが1907年には、
- 日露漁業協約 7月28日
- 第一次日露協約 7月30日
が相次いで成立します。
第一次日露協約では、両国が互いの領土保全を尊重し、清国の独立・領土保全と「機会均等」を認めることになりました。
つまり、「日露戦争をした敵国」→「利害を調整する隣国」へと関係が変化していたのです。
しかし、その関係は決して完全な友好ではありません。
漁業権のような具体的な利権をめぐっては、
日本「もっと広い漁業権を認めてほしい」
ロシア「それは認められない」
日本「河川も沿岸区域に含めたい」
ロシア「それも認めない」
→ 最終的に妥協
という激しい交渉が行われました。
この「協調しながら、利権については激しく争う」というのが、1907年以降の日露関係の特徴です。
⚫︎ この記事で特に注目したい人物
・本野一郎
日本側の交渉担当者です。
当時の駐露公使で、1907年の日露漁業協約にも日本側全権として署名しています。
・コンスタンチン・グバストフ
ロシア側の交渉担当者の一人。
この記事では、日本側の要求に対して強硬に反対した人物として登場します。
実際の協約にもロシア側全権として署名しています。
・アレクサンドル・イズヴォルスキー
当時のロシア外相。
1907年の日露漁業協約だけでなく、7月30日に成立した第一次日露協約にもロシア側全権として関わっています。
⚫︎ この記事の歴史的な意味
この記事は、単に「漁業権について日露が交渉した」というニュースではありません。
むしろ重要なのは、
① 日露戦争後、日本はロシア沿岸への経済進出を狙っていた
→② ロシアは日本の要求を警戒していた
→③ 両国は外交関係を改善しつつあった
→④ しかし、具体的な経済利権では激しい交渉を行っていた
→⑤ 最終的には妥協して「日露漁業協約」を成立させた
という流れです。
そして、その後の北洋漁業にとって、この協約は非常に大きな意味を持ちます。
研究によれば、日本企業はカムチャツカ沿岸で300を超える漁区を経営するまでになり、サケ・マスを中心とした北洋漁業が急速に発展しました。
⚫︎ まとめ
この記事を一言でまとめると、
「日露戦争後、日本がロシア領沿岸での漁業権を拡大しようとしたのに対し、ロシアは強く抵抗し、最終的には日本側が一部譲歩する形で1907年の日露漁業協約が成立した。その交渉経過をロシア政府が自国に有利な形で公表した」
という記事です。
特に重要なのは、新聞がロシア政府の発表をそのまま中立的に紹介しているのではなく、「露国外交の勝利」と評価している点です。
これは、当時の日本の新聞が外交交渉を「どちらが譲歩したか」「どちらが勝ったか」という視点でも見ていたことを示しています。
一方、現在の史料から見ると、ロシア側が一定の譲歩をしたことも明らかで、実際の協約は日本にかなり大きな北洋漁業権益を与えました。したがって、「完全なロシアの勝利」と見るのは、この記事のロシア側外交文書に対する評価に過ぎないと考えるのが適切です。

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