(1907〈明治40〉年9月29日・日本新聞)
今では各地に楽器製造会社ができているが、明治12~13年(1879~1880年)頃は、伊沢修二らによって音楽取調掛がようやく設立され、日本で学校唱歌が始まったばかりの時代だった。当時、西洋音楽に触れられる場所は、牛込にあった宮内省雅楽部や管楽器の教育機関、そしてニコライ堂くらいしかなく、ヴァイオリンは存在していても、その演奏法はもちろん、楽器の名前さえ知らない人が多かった。
その頃、浅草区新福富町に住む松永定次郎(58歳)は、以前は深川で琴や三味線を製作していた。彼は「西洋には三味線によく似た、美しい音色の楽器がある」と聞き、ぜひ一度見てみたいと思った。そして調べたところ、その楽器がニコライ堂にあることを知り、すぐに訪ねた。そこで同教会の楽師デミトリー(デミチリー)氏に会ったが、お互いに言葉が通じず、楽器の名前さえ知らなかったため、身振り手振りで「その楽器を見せてほしい」と伝えた。デミトリー氏がヴァイオリンを取り出すと、松永は飛び上がるほど喜び、その構造を詳しく調べて帰宅した。しかし、ヴァイオリンに使われているモミ・カエデ・トチなどの木材は日本では手に入りにくかったため、洋服店へ行き、輸入毛織物(ラシャ)の木箱に使われていた木材を買い求め、それを材料として、日本で初めてヴァイオリンを製作した。
これは明治13年(1880年)8月のことであり、日本で西洋楽器が製造された最初の出来事だったという。苦心して完成させたヴァイオリンだったが、当時は買う人もおらず、自分でも売ろうとは考えず、さらに良い楽器を作ることだけに没頭した。その結果、ついには家財を失い、一時は大変苦しい生活に陥ったが、それでもヴァイオリン製作を続けた。
その後、音楽取調掛の教師であるソープレー氏やリットリヒ氏から指導を受けて技術を磨いた結果、近年では宮内省や東宮職(皇太子関係機関)の御用をはじめ、音楽学校、雅楽寮、多くの音楽家から高い評価を受けるようになった。現在は新福富町で妻のすず(38歳)と長男鶴太郎(5歳)の三人で暮らし、ヴァイオリンの製作や修理を行っている。さらに、今年(1907年)の博覧会に出品したヴァイオリンは、宮内省が買い上げる栄誉に浴したという。
⚫︎ 日本のヴァイオリン製作の黎明期
この記事は、日本におけるヴァイオリン製作の草創期を伝える貴重な証言です。
明治維新以前、日本の楽器といえば
- 琴
- 三味線
- 琵琶
- 尺八
などが中心でした。
西洋音楽が本格的に導入されるのは明治政府による近代化政策以後です。
⚫︎ 音楽取調掛の設立
1879(明治12)年、文部省は音楽取調掛を設置しました。
中心となったのが
- 伊沢修二
- ルーサー・ホワイティング・メーソン
です。
ここから
- 学校唱歌
- 西洋音楽教育
- 東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)
へと発展していきました。
⚫︎ ニコライ堂の役割
ニコライ堂はロシア正教会の聖堂であり、日本へロシア音楽や西洋音楽が紹介される重要な拠点でもありました。
記事では「ヴァイオリンはニコライ堂にある」とあり、当時としては西洋楽器を実際に見ることのできる数少ない場所だったことがわかります。
⚫︎ 松永定次郎の挑戦
松永定次郎はもともと
- 三味線
- 琴
など日本の伝統楽器職人でした。
しかし、「西洋にも三味線のような良い音色の楽器がある」と聞いて、自ら研究を始めます。
興味深いのは、設計図が存在しなかったことです。
実物を見て
- 寸法を測る
- 木材を調べる
- 構造を覚える
という、まさにリバースエンジニアリングによって日本初のヴァイオリンを完成させました。
⚫︎ なぜ輸入木箱を使ったのか
ヴァイオリンには通常
- スプルース(表板)
- メープル(裏板・側板)
が使われます。
当時の日本ではこれらの木材を入手することが困難だったため、輸入毛織物(ラシャ)の梱包箱に使われていた欧州産木材を再利用したと考えられます。
これは明治初期の職人の創意工夫をよく示しています。
⚫︎ 宮内省御買上げの意味
記事では「博覧会出品作を宮内省が買い上げた」とあります。
宮内省が購入することは
- 品質が国家的に認められた
- 日本最高水準の製作技術と評価された
ことを意味し、職人にとって極めて名誉な出来事でした。
⚫︎ まとめ
この記事は、日本で最初期にヴァイオリン製作へ挑戦した職人松永定次郎の歩みを紹介しています。
主なポイントは次のとおりです。
- 明治13(1880)年頃、日本で初めて本格的なヴァイオリンを製作したとされる。
- 設計図も資料もない中、ニコライ堂で実物を観察し、独学で製作技術を確立した。
- 材料不足を輸入木箱の再利用によって克服するなど、創意工夫を重ねた。
- 一時は家産を失うほど苦労したが、研究を続け、宮内省や音楽学校から高い評価を受ける職人へと成長した。
この記事は、明治日本における西洋音楽受容の歴史だけでなく、日本の職人が海外技術を吸収・発展させていく過程を伝える貴重な史料といえます。

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