1907年10月20日 社会主義者、二派に分離する

1907年

(1907年(明治40)年10月20日・『大阪平民新聞』)
東京評論・第四信(幸徳秋水)
 東京における社会主義運動の流れは、現在では、おおむね次の二つの派に分かれているような状況になっています。一つは、片山潜・西川光二郎・田添鉄二らの「社会主義同志会」です。もう一つは、堺利彦・山川均ら、金曜日に開かれている講演会に参加している人々です。
 もちろん、まだ明確な宣言や綱領を掲げて、正式に「二派に分裂した」と発表したわけではありません。しかし、両者の間には、現在ではほとんど交渉も関係も連絡もなく、それぞれが別々に行動していることは事実です。ついでに申し上げておくと、私は病気のため、思うように活動に参加することができませんが、私は後者、つまり堺・山川らの側に名前を連ねている者です。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/187

写真・図引用:https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/29889/attachment/「大逆事件」で処刑された幸徳秋水(1871-1911年)?utm_source=chatgpt.com

⚫︎ そもそも、なぜ社会主義者が二派に分かれたのか

この分裂を理解するためには、1906~1907年の日本社会党内部の論争を見る必要があります。

1906年1月、第一次西園寺公望内閣の比較的寛容な社会政策のもとで、日本社会党が結成されました。これは日本で初めて合法的に結成された社会主義政党でした。

ところが党内では、

  • 議会を利用して社会主義的政策を実現する
  • 議会政治を否定し、労働者の直接行動によって社会を変革する

という二つの考え方が激しく対立するようになります。

国立国会図書館も、1901年の社会民主党から日本の初期社会主義運動が発展していった経緯を紹介しています。1901年の社会民主党は、片山潜・西川光二郎・幸徳秋水らを発起人として結成されましたが、直ちに禁止されました。

⚫︎ 「議会政策派」とは何か

この記事で、片山、西川、田添諸君の社会主義同志会とされているグループです。

代表的な人物は、

  • 片山潜
  • 田添鉄二
  • 西川光二郎

です。

彼らは、社会主義の実現のために、普通選挙や議会制度を利用することを重視しました。

つまり、「現在の国家制度を利用しながら、選挙権を拡大し、議会を通して社会主義的改革を進めていこう」という方向です。

法政大学大原社会問題研究所によれば、1907年8月31日に片山・西川・田添らが「社会主義同志会」を組織し、発会式を行いました。会の目的として、週1回の社会主義研究会と、その研究成果を発表する演説会などが掲げられています。

したがって、この記事の日付である10月20日には、社会主義同志会はすでに正式な組織として存在していました

⚫︎ もう一方の「金曜講演」側とは?

こちらが、この記事を書いている幸徳秋水自身が属しているグループです。

中心人物として、

  • 幸徳秋水
  • 堺利彦
  • 山川均

などが挙げられています。

こちらは一般に、「直接行動派」あるいは「直接行動論派」と呼ばれます。

彼らは、議会を通じた漸進的改革よりも、労働者のストライキなどの直接行動によって社会を変革することを重視する方向へ進んでいました。

特に重要なのが、1905年のロシア第一革命の影響です。

幸徳秋水は1905年以降、社会主義思想をさらに急進化させ、議会政治そのものに対して非常に批判的になっていきました。

このため、

 片山潜・田添鉄二→「議会政策」

対して、

 幸徳秋水・堺利彦ら→「直接行動」

という対立が生まれました。

1907年2月の日本社会党第2回大会では、この問題が正面から衝突します。研究史でも、この大会を両派の対立が決定的に表面化した重要な出来事と位置づけています。

⚫︎ しかし、日本社会党はその直後に政府から禁止される

ここが非常に重要です。

日本社会党の第2回大会では、直接行動派が優勢となりました。

ところが、そのわずか5日後の1907年2月22日、政府は治安警察法を根拠として日本社会党の結社を禁止しました。

つまり、

党内対立
直接行動派が優勢
政府が日本社会党を禁止
政党としての活動が不可能になる
それぞれが別々の組織・活動を模索する

という流れです。

その結果、8月には片山・田添・西川らが社会主義同志会を結成しました。

⚫︎ 『大阪平民新聞』という新聞の立場

ここも非常に面白いところです。

この記事が掲載された『大阪平民新聞』は、1907年6月に大阪平民社から発行された新聞で、同紙は幸徳らの直接行動論に近い立場を明確にしていました。法政大学大原社会問題研究所は、この新聞を「前者〔直接行動論〕の立場を鮮明にした新聞」と説明しています。(法政大学オープンイノベーション研究所)

したがって、幸徳秋水が『大阪平民新聞』に「東京評論」を書き、自分たちの側から社会主義運動の分裂状況を説明しているという構図になります。

これは単なる中立的な新聞記事ではありません。幸徳側から見た「東京社会主義運動の現状報告」なのです。

⚫︎ 「金曜講演」は何だったのか

記事に出てくる、「金曜講演」は、幸徳・堺・山川らの活動を理解するうえで非常に重要です。

1907年秋には、幸徳秋水らが東京で社会主義について講演する活動を行っていました。

研究資料によると、1907年の講演会では、

  • 幸徳秋水
  • 堺利彦
  • 山川均
  • 大杉栄

などが講演者として登場しています。

つまり、この記事の「堺、山川等金曜講演に参加せる諸君」という表現は、

幸徳・堺・山川らが講演・言論活動を中心に社会主義思想を広めていたグループを指していると考えると分かりやすいでしょう。

⚫︎ 幸徳秋水が「私は後者です」とわざわざ書いた意味

最後の、「小生は病気の為め、思ふやうの活動は爲し得ざれど、後者に姓名を列する者に候。」は重要です。

幸徳は単に客観的に「二派があります」と説明しているのではありません。

自分自身について、「私は堺・山川らのグループに属している」とはっきり宣言しています。

しかも、「病気のため、思うように活動できない」と付け加えています。

これは1907年の幸徳が、理論上は直接行動派の中心人物でありながら、健康問題のため実際の運動への参加が制限されていたという事情も示しています。

⚫︎ 実は「二派」は単純な二分ではない

ここは歴史的に注意が必要です。

「議会政策派」と「直接行動派」という二分類は便利ですが、実際の思想関係はもっと複雑でした。

例えば、堺利彦は幸徳と行動を共にしていましたが、幸徳ほど単純に「暴力革命」を主張していたわけではありません。

また山川均も、この時期には幸徳・堺側にいましたが、その後の思想的発展を経て、日本のマルクス主義を代表する人物になっていきます。

さらに、社会主義同志会の側でも全員の考えが完全に一致していたわけではありません。

法政大学大原社会問題研究所によれば、社会主義同志会には直接行動派に共感する人物も含まれており、後の内部対立の原因の一つになりました。

したがって、この新聞記事の「二派」は、1907年秋の時点での運動上の大きな二つの潮流と理解するのが最も正確です。

⚫︎ まとめ

この短い記事は、実は日本の初期社会主義運動が大きく転換する瞬間を記録した非常に重要な史料です。

時系列で整理すると

1901年
→ 幸徳秋水・片山潜・西川光二郎らが社会民主党を結成
→ 政府に禁止される。

1903~1905年
→ 幸徳秋水・堺利彦らが平民社を中心に活動
→ 『平民新聞』によって反戦・社会主義を主張。

1906年
→ 日本社会党が合法的に結成される
→ 幸徳らと片山・田添らの思想的対立が深まる。

1907年2月
→ 日本社会党第2回大会
→ 「議会政策」対「直接行動」が正面衝突
→ その直後、日本社会党は政府により結社禁止。

1907年8月
→ 片山潜・西川光二郎・田添鉄二らが社会主義同志会を結成。

1907年秋
→ 幸徳秋水・堺利彦・山川均らは「金曜講演」などを中心に活動。

1907年10月20日
→ 幸徳秋水が『大阪平民新聞』で、「東京の社会主義者は、もう実質的に二派に分かれている」と報告。

つまりこの記事は、日本社会党という一つの合法政党が消滅した後、日本の社会主義運動そのものが「議会政策派」と「直接行動派」に分かれて再編されつつあったことを示す史料なのです。

そして翌1908年には、屋上演説事件、赤旗事件などによって直接行動派への弾圧がさらに強まり、1910年の大逆事件へと続いていきます。

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