(1907〈明治40〉年9月18日『福岡日日新聞』)
第一艦隊の戦艦鹿島は、甲島付近で戦闘射撃訓練を行っていたが、昨日午後4時過ぎ、後部12インチ(30.5cm)砲塔内で砲弾が爆発する事故が発生した。この事故により、分隊長の有田大尉以下、海軍兵学校の候補生2名を含む約40名の将兵が死傷した。犠牲者の中には、爆発の威力によって遺体の損傷が激しく、周囲一帯が血に染まるほどの凄惨な状況となった。また、射撃訓練を見学していたある佐官1名も死亡したという。
事故を受けて鹿島は直ちに射撃訓練を中止し、呉軍港へ急行した。同日午後6時過ぎに入港し、死傷者は深夜までに海軍病院へ収容された。現在、艦内では乗組員の上陸を禁止して事故処理が進められており、兵器にも大きな損傷が生じたとみられている。
事故原因は、装填したものの発射されなかった砲弾(不発弾)を取り出そうとして砲尾(尾栓)を開いた際に突然爆発したためと伝えられている。12インチ砲の砲弾は極めて大型であったため、その爆発の威力は非常に大きかった。なお、当時の鹿島艦長は小泉海軍大佐であった。
写真・図引用:https://www.tynebuiltships.co.uk/K-Ships/kashima1906.html?utm_source=chatgpt.com
⚫︎ 戦艦「鹿島」とは
記事の「鹿島」は、戦艦鹿島です。
鹿島は日露戦争末期の海軍拡張計画でイギリスのアームストロング社に発注され、1906(明治39)年に就役した当時最新鋭の戦艦でした。
主砲には12インチ(30.5cm)連装砲4門を備え、日本海軍の主力艦として第一艦隊に配属されました。
事故当時は就役からまだ約1年しか経っていませんでした。
⚫︎ 事故の原因
記事では、不発弾を取り出そうとして尾栓を開けた際に爆発したと説明されています。
当時の大口径砲は、
- 砲弾を装填
- 装薬(火薬袋)を装填
- 尾栓を閉鎖
- 発射
という工程で運用されました。
不発となった場合は砲内に砲弾や装薬が残るため、取り扱いは極めて危険でした。
後の調査でも、この事故は砲内に残っていた火薬が何らかの原因で引火したことによる砲塔内爆発と考えられています。
⚫︎ 日本海軍で相次いだ砲塔事故
この事故は、日本海軍にとって最初ではありませんでした。
明治後期から大正期にかけては、
- 火薬の性質
- 砲塔内の換気
- 装薬の取り扱い
- 発射手順
などに起因する事故が各国海軍で発生していました。
日本海軍も、
- 安全装置の改良
- 不発時の手順見直し
- 砲術教育の改善
を進める契機となりました。
こうした経験は、その後の砲術教範や火薬管理の厳格化へとつながっていきます。
⚫︎ 明治海軍と実弾演習
日露戦争後、日本海軍は急速に世界有数の海軍へ成長しました。
そのため、
- 艦隊運動
- 実弾射撃
- 夜間戦闘訓練
などが頻繁に実施されていました。
しかし、実弾を用いる訓練では事故の危険も大きく、鹿島の事故は平時訓練中に起きた最悪級の爆発事故として広く報道されました。
⚫︎ 記事の表現について
記事には、「身首所を異にし」、「手足飛び肉散り」など非常に生々しい表現が見られます。
明治時代の新聞は、今日の新聞倫理とは異なり、事故や災害の惨状を詳細に描写することが少なくありませんでした。
また、事故直後の記事であるため、死傷者数や原因には速報段階の情報が含まれており、その後の公式調査で修正された点もあります。歴史資料として利用する際には、海軍の事故報告書などと照合することが重要です。
⚫︎ まとめ
- 1907年9月17日、戦艦鹿島の12インチ砲塔内で爆発事故が発生し、約40名の死傷者を出した。
- 不発弾を処理中に砲尾を開いた際、砲内で爆発が起きたことが原因と報じられた。
- 鹿島は当時最新鋭の戦艦であり、この事故は日本海軍に大きな衝撃を与えた。
- 事故を契機として、大口径砲の安全管理や砲術教育の見直しが進められた。
- 新聞記事は速報であり、凄惨な状況を強調した表現が見られるため、後年の公式記録とあわせて読むことが望ましい。

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