1908年02月07日 間島は――国籍不明

1908年

(1908〈明治41〉年2月7日、東京日日新聞)
 昨日6日の衆議院予算分科会で、鶴原〔定吉〕委員から間島問題について質問があった。
 鶴原委員は、間島の所属については目下、日本と清国との間で協議中であり、まだ決まっていない問題であるにもかかわらず、統監府の派出所を設置して韓国人の保護に当たっている以上、もし日本側の主張どおり間島が韓国領ということになれば問題はないが、別の帰属先などに決まった場合には、当然、現在の施設を撤去しなければならないのか、と質問した。
 これに対し、政府側は「その場合には撤去することになる」と答えた。
 次に鶴原委員は、間島にいる帝国〔日本〕の官吏について尋ねた。警察官を除いて総数約130人おり、そのうち韓国の官吏〔韓国人〕は官制上は韓国統監府の参与官であるが、これらを含めた給与は韓国政府が支給することになっている。しかし実際には韓国政府から給与が支給されておらず、そのため統監府の官吏から多少の融通を受けている、との答弁があった。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/213

写真・図引用:

■ 「間島」とはどこか

間島(かんとう/かんとう地方)は、現在の中国吉林省東部、延辺朝鮮族自治州周辺を中心とする地域です。朝鮮系住民が多数移住していた一方、清国と朝鮮との国境確定をめぐって長年争いがありました。

日韓保護条約後、日本は韓国の外交権を掌握していたため、間島問題にも直接関与するようになります。1907(明治40)年には統監府が間島に臨時派出所を設置しました。日本側史料でも、この時期に清国側との間で国境決定の交渉が続いていたことが確認できます。

■ なぜ見出しが「国籍不明」なのか

ここでいう「国籍」は、現在一般にいう個人の国籍ではなく、間島という地域が「清国領なのか韓国領なのか」という領土帰属を意味しています。

記事のポイントは、日本が間島を韓国領とする立場から韓国人保護のため統監府派出所を置いている一方、領土問題そのものはまだ決着していなかった、という矛盾を議会で追及したところにあります。

■ その後の間島問題

日本政府は1908年9月の閣議決定では、韓国側の領有権主張について「根拠甚だ薄弱」と判断し、豆満江を清韓国境とする方向へ政策を転換しました。これは、この記事から約7か月後のことです。

最終的には1909(明治42)年9月4日の間島協約で、日本は間島を清国領と認めました。協約には統監府派出所と日本の文武官を2か月以内に撤退させることも明記されており、この記事で鶴原委員が質問した「韓国領でなかった場合、施設を撤去するのか」という問題が、翌年現実のものとなりました。

◾️ まとめ

この記事は、領有権がまだ確定していない間島に、日本が統監府派出所を置いて韓国人を保護していることの法的・行政的な問題を、衆議院予算分科会で追及した記事です。

特に興味深いのは、政府側がこの時点ですでに、間島が日本側の想定とは異なる帰属になれば「施設を撤去する」と答えている点です。実際に翌1909年の間島協約では清国領とされ、日本側施設の撤退が定められました。

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