(1908〈明治41〉年2月11日、東京日日新聞)
日本汽船「第二辰丸」がマカオ付近で武器を陸揚げしようとしていたところ、清国の巡視船に発見され、広東で抑留されたという事件について、上海から詳しい電報が入った。
それによれば、清国革命党員の一団が、広東省三水付近に潜伏している暴徒の配下を使って武器を輸入しようとし、香港の独逸〔ドイツ〕商人某と契約して、これを米国から取り寄せたものだという。
その武器はいったん横浜に陸揚げされ、さらに現地の粟屋商会の手を経て第二辰丸に積み替えられ、マカオでその独逸商人に引き渡す予定だったという。日本側の第二辰丸は、単に依頼を受けて輸送しただけで、それ以外には何ら関係がなく、もし事件となれば何の落ち度もないまま釈放されるべきである――という内容である。
写真・図引用:https://xiangyu-macau.oss-cn-hongkong.aliyuncs.com/app/szb/pc/content/202501/21/content_389319.html
■ 「辰丸事件」が発生した直後の記事
これは、いわゆる第二辰丸事件(辰丸事件)が起きてからわずか数日後の記事です。第二辰丸は1908(明治41)年2月5日、マカオ沖で銃器・弾薬を積んでいたところ、清国官憲に武器密輸の疑いで抑留されました。日本政府は船の釈放などを要求し、日清間の外交問題へ発展します。
■ 記事の「革命党関与説」には注意が必要
この記事で特に重要なのは、武器について、「清国革命党が暴徒のために輸入した」と報じている点です。しかし、これは事件直後の情報であり、現在ではそのまま事実とはみなせません。
革命派の馮自由は後年、この説を明確に否定しています。彼によれば、革命党はこの武器を奪取して革命運動に利用する計画を一時検討したものの中止しており、第二辰丸の武器そのものは革命党が購入したものではなかった、とされています。
したがって今回の記事は、事件発生直後に日本側へ伝わった情報・見方を記録した速報記事として読むのが適切です。
■ 実際の積荷
資料によって数量に若干の相違がありますが、第二辰丸が大量の銃器・弾薬を積載していたこと自体は確認できます。マカオ側の資料では、マカオの商人が購入した銃器約2,400丁、弾薬などが積まれていたとされています。
また、この記事に登場する「粟屋商会」は、後世の日本側解説でも、第二辰丸が大阪の粟谷商会から購入された銃器弾薬を輸送していたこととの関連が確認できます。
■ この事件はさらに大きな問題へ
事件は3月に外交決着しますが、日本側の要求を清朝政府が受け入れたことへの反発から、広東・香港を中心に日本商品のボイコット(排日貨運動)が拡大しました。これは近代中国における本格的な排日大衆運動の初期の重要事例とされています。
◾️ まとめ
この記事は、第二辰丸が清国官憲に抑留された直後、その武器の送り先や革命党との関係について報じた速報です。
特に興味深いのは、記事が「第二辰丸は依頼されて運んだだけで、日本側には落ち度がない」という方向で説明している点です。しかし、革命党関与説を含め、事件直後には情報が錯綜していました。
したがってこの記事は、辰丸事件そのものを知る資料であると同時に、事件発生直後、日本の新聞にどのような情報が伝えられていたかを示す資料として読む価値があります。


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