1908年02月11日 憲法発布当日に用ひられた『萬歳』の発明者 和田垣博士――森有礼は「奉賀」発声を主張

1908年

(1908〈明治41〉年2月11日、報知新聞)
 和田垣謙三博士の懐旧談。
 憲法発布式の当時、祝賀の意味を表す「万歳」という言葉が、今日のように全国で広く使われるようになった。
 和田垣博士によれば、当時、帝国大学の職員や学生たちは、憲法発布式の日に天皇陛下を敬礼する際、従来の黙礼だけでは物足りないので、何か声を出して祝意を表そうではないか、という問題を大学内で話し合った。その中心となったのは、文部大臣の森有礼、大学総長の渡辺洪基、外山正一、加藤弘之、矢田部良吉らであった。
 森有礼は「奉賀(ほうが)」という言葉を提案した。学生たちに毎日練習させてみたものの、どうにも響きがよくなく、阿呆が間違って「万歳」とでも言う方がまだよいのではないか、という話になった。そこで「万歳」がよいということになり、大学内の職員の間でも「万歳、万々歳」と三唱することになった。この三唱法は和田垣の発案で、「万歳」を一度だけ叫ぶのでは、頭も尻尾もないウサギのようで物足りない、という理由からであった。憲法発布式当日、和田垣は学生たちとともに二重橋付近で「万歳」を唱えたが、矢張〔矢田部〕らのグループも同じように行ったという。
 和田垣はさらに、
「日本の『万歳』は、独逸〔ドイツ〕などでよく行われる『ホーホ(Hoch)』のようなもので、感動詞に近いものです。理屈を言えば、天皇陛下には『千歳』、臣下には『万歳』と言うべきなのかもしれません。しかし日本では、その頃から『万歳』の意味と使いどころをよく理解して、臣下の目出度いことにも文字にこだわらず『万歳』を用いるようになっています」
と語った。
そして最後に、
「憲法発布式を祝おうとして『奉賀』の二文字を考え出した森有礼君は、その憲法発布の日に殺されてしまい、代わって『万歳』という唱え方を考案した私は、今なお健在で、今日その20年目の記念日を迎えるというのは、実に予期しなかったことです」
と述べている。

記事引用:https://dl.ndl.go.jp/pid/1920436/1/214

写真・図引用:https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/204/index.html

■ 20年前の「憲法発布の日」を振り返った記事

この記事が掲載された1908(明治41)年2月11日は、大日本帝国憲法が発布された1889(明治22)年2月11日から満19年、数え方では「20年目」に当たります。大日本帝国憲法は伊藤博文を中心に井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らが起草に携わり、枢密院の審議を経て発布されました。

■ 「万歳三唱」の由来を語る和田垣謙三

この記事で面白いのは、現在でも祝賀の際に行われる「万歳三唱」の起源を、当事者の回想として説明している点です。

記事によれば、憲法発布を祝う学生たちが天皇を迎える際、黙礼だけでなく声を発することになり、「奉賀」などの候補を経て「万歳」に決定。さらに和田垣が一声では物足りないとして三唱を提案した、とされています。

ただし、これは約19年後の和田垣本人による回想談です。「万歳」という語そのものを和田垣が発明したという意味ではなく、記事が語っているのは、近代日本における祝賀の掛け声としての「万歳」、特に三唱の習慣の成立についてです。

■ 森有礼と憲法発布日の暗殺事件

記事末尾の「森有礼君は其式日に殺され」は史実と一致します。

初代文部大臣だった森有礼は、憲法発布当日の1889年2月11日に自宅で襲撃され、翌12日に死亡しました。大日本帝国憲法の御署名原本には、森の署名も残っています。国立公文書館も、森が「憲法発布式典当日、暴漢に襲われ死亡した」と説明しています。

■ 憲法発布は国家的な祝賀行事だった

1889年2月11日の発布は、天皇が「臣民」に与える欽定憲法という形式で行われました。東京では祝賀行事が行われ、当時の新聞や錦絵にもその熱狂が記録されています。憲法は翌1890(明治23)年11月29日に施行されました。

◾️ まとめ

この記事は、1908年の憲法発布記念日に、和田垣謙三が「万歳三唱」がどのように始まったのかを回想した人物記事です。

特に価値があるのは、「奉賀」という案から「万歳」へ変わったこと、大学関係者が練習したこと、和田垣が三唱を提案したことなど、祝賀儀礼が作られていく様子が具体的に語られている点です。

同時に、森有礼が「奉賀」を提案しながら憲法発布当日に襲撃されたという出来事と、19年後も生きて「万歳」の由来を語る和田垣とを対比させた、新聞らしい人物記事になっています。

コメント