1906年09月23日 樺太の小学校

1906年

引用:新聞集成明治編年史 第十三卷 P.145

(1906年9月23日 東京朝日新聞)
 樺太民政署では、今年の春から南樺太のコルサコフ市に小学校を設立する計画を立てていたが、すでに第一校をホロアント町、第二校をウラジミロフカ町、第三校をマウカ町に、それぞれ尋常高等小学校として設立することを決定した。
 先月から建築工事に着手しており、来月中旬までには完成する見込みである。これにより、今後は移民たちが家族を連れて移住してきても、教育面で特に不便を感じることはなくなるであろう。

この記事は、日露戦争後の南樺太統治の進展を背景としています。

◾️ 南樺太の日本領有

 1905年の日露戦争の講和条約であるポーツマス条約により、北緯50度以南の樺太(南樺太)は日本領となりました。これを受け、日本政府は同地に樺太民政署を設置し、軍政から民政への移行を進めていました。

◾️ 日本人移民の定住政策

 当初の南樺太は、ロシア人住民や流刑囚の子孫が多く、日本人の定住はこれから本格化する段階でした。
 政府は、
  ・官吏
  ・漁業・林業関係者
  ・商人・開拓民
などの移住を奨励しており、「単身赴任」ではなく「家族同伴の定住」を実現することが重要課題でした。

◾️ 学校設立の意味

 そのために不可欠だったのが、日本式の初等教育機関です。
  ・「尋常高等小学校」は、尋常小学校(6年)と高等小学校(2年)を併設する、当時としては充実した学校形態
  ・複数の町に同時に設立する点からも、南樺太を一時的な占領地ではなく、恒久的な日本の領土として整備する意図が読み取れます

 この記事の結びで「移民等は家族を引き連れ移住するも、何等不便を感ぜざるべし」と述べているのは、教育環境が整ったことを内地(日本本土)の人々にアピールし、移住を促す狙いがあったためです。

◾️ まとめ

 この記事は、
  ・南樺太が「前線」から「生活の場」へと変化していく過程
  • 日本の帝国的拡張が、軍事だけでなく教育・行政によって支えられていたこと
を具体的に示す史料といえます。

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