(1906年3月3日・東京朝日新聞)
鉄道国有化問題について、ただ一人異論を唱えていた外務大臣・加藤高明氏は、一昨夜(おとといの夜)、自ら辞表を提出した。
続報
加藤外務大臣が辞表を提出した後、西園寺首相は、昨日正午まで考え直す時間の猶予を与えるよう加藤氏に求め、これを秘密扱いにしていたという。しかし双方とも、それまでの主張の相違について歩み寄る余地を見い出せず、そのまま決裂したとのことである。
そのため首相は加藤氏の辞表を天皇に提出し、内閣として小規模な改造(部分的更迭)を行わざるを得なくなったが、外務大臣の後任は当面決まっておらず、首相がしばらく兼任する見込みである。
問題の核心 — 鉄道国有法(1906年)
当時、日本では主要鉄道会社を政府が買収し、国家の直接運営に切り替えようとする「鉄道国有化政策」が推進されていました。
目的は以下の点にありました。
• 軍事輸送能力の強化(特に日露戦争経験の反映)
• 鉄道網の統一と効率化
• 財閥・政商による鉄道支配の排除
• 財政基盤の安定化
しかし、これには 巨額の買収費用 がかかり、また 自由主義経済に反するのではないか という懸念も出ていました。
辞任した加藤高明とは
加藤高明(1860–1926)は後に内閣総理大臣(1924–1926)となる人物で、国際協調を重視する外交官・政治家でした。彼は鉄道国有化に対して 慎重・反対の立場 にあり、政府の急進的方針と折り合わず辞任に至りました。
なぜ「内閣の破綻」と報じられたのか
当時の日本では、閣僚が重要政策に対し一致して行動することが求められており、閣内不一致は政権崩壊の危機を意味しました。そのため新聞は「内閣の破綻」と強い表現で報じています。ただし、実際には内閣は総辞職せず、部分改造(小更迭)にとどまりました。
歴史的意義
• 鉄道国有法はこの後成立(1906年3月)、日本の国家主導型産業政策の象徴となる
• 加藤高明は後に政党内閣制の確立に貢献する政治家となる
• この事件は 政策論争による閣僚辞任の先例としても重要


コメント