(1908〈明治41〉年2月7日、萬朝報)
吉田奈良丸は、愛国婦人会のため、来る11日から東京の新富座で慈善興行を行うことになり、昨日5日夕方に上京した。
奈良丸は現在、浪花節を好む人々の間で、地位・人気ともに第一人者となっている。丁年〔成人〕に達する前に改良派の旗頭となったほどで、その性格は人付き合いがよく、当世の芸人らしい気取りもない。一方で、同業者から圧迫を受けたこともあったが、それにもよく耐えて浪花節界で頭角を現し、今や第一級の芸人となった。
得意とする演目は『忠臣蔵』と『源平盛衰記』などで、上下を合わせれば三百余段にも及ぶという。
写真・図引用:https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/rekishi/rokyoku/index3.html
■ 吉田奈良丸とは
この記事の奈良丸は、明治末期の浪花節界を代表した吉田奈良丸です。浪花節(後の「浪曲」)は、三味線を伴奏に物語を節と語りで演じる大衆芸能です。
日露戦争後には浪花節が急速に人気を高め、桃中軒雲右衛門、吉田奈良丸、京山小円などが代表的な浪曲師となりました。奈良丸は平易で優美な節回しで人気を集め、その芸風は後に「奈良丸くずし」と呼ばれるほど社会に浸透しました。
■ 「欧浪花節界の牛耳を執る」とは
見出しの「牛耳を執る」は、その世界の中心人物・第一人者になるという意味です。
本文でも「地位と財産等を犠牲に供して芸人となり」とあり、若くして改良派の中心人物となった奈良丸を、かなり好意的に紹介しています。
■ 愛国婦人会の慈善興行
愛国婦人会は1901(明治34)年に設立された婦人団体で、戦没者遺族や傷病兵などへの援護活動を行いました。
愛国婦人会の記録にも、1908(明治41)年2月11日から吉田奈良丸が東京・新富座で3日間興行し、その収益金を同会へ寄付したことが記録されています。今回の記事の日付・内容と一致する重要な一次資料です。
■ 浪花節が大劇場へ進出した時代
浪花節はもともと寺社境内や寄席などを中心とした庶民芸能でしたが、明治末期になると大劇場へ進出します。特に1907(明治40)年、桃中軒雲右衛門が東京・本郷座で長期興行を成功させたことが大きな転機となりました。
奈良丸の新富座出演も、浪花節が単なる寄席芸から、東京の主要劇場で興行できる人気芸能へ成長していたことを示しています。
◾️ まとめ
この記事は、関西で人気を得ていた吉田奈良丸が、愛国婦人会の慈善興行のため東京へやって来たことを紹介した人物記事です。
重要なのは、奈良丸個人の人気だけでなく、日露戦争後に浪花節そのものの社会的地位が急速に上昇していたことです。愛国婦人会の慈善活動と結びつき、新富座という大劇場で公演することは、浪花節が明治末期の代表的な大衆文化へ成長していく過程を象徴しています。

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